関係の深まる講談社と陸軍…突き付けられた言論統制のサーベル

大衆は神である(65)
魚住 昭 プロフィール

新聞雑誌用紙統制委員会

次は、講談社の総合雑誌『現代』の編集者だった御郷信祐の回想である。

〈(昭和14年ごろ)支那事変で赫赫たる戦果が上がっているというので、実戦についての座談会を『現代』などでさかんにやったものです。司令官とか部隊長とかが出て話をしたのですが、そういう会を開くときは、陸軍の報道部から部員が一人立ち会うことになっていた。昭和十四年の何月か、その座談会に初めて出てきたのが鈴木庫三氏です。当時、鈴木少佐は報道部に入って間もないころだったから、座談会では正直のところ小さくなって、何も言わないおとなしい男だった。それがだんだん月がたつにつれて強くなってくる。はじめはまるで処女のごとくだったのですが、後にはサーベルで命令するような形になってきた。(略)当時、東大助教授であった中島健蔵氏(仏文学)もその会に出席していましたが、何か二言、三言いおうとすると鈴木氏がパッと押さえて言わせない。自分の気に入らないことは発言させない。だんだんそういう様子があらわれて、これでは国家総動員でみんな心を一つにして盛り上がってゆくときに、ああいうふうにサーベルで押さえるというようなことはいかんという感じが僕らはしましたね〉

鈴木庫三のサーベルの音が出版界に響き渡るようになったのは昭和15年5月、内閣情報部に「新聞雑誌用紙統制委員会」が設置されてからである。

 

この委員会は内務省、文部省、商工省、陸軍省、海軍省などの局長が委員となっている監督指導機関で、政府が「用紙制限という生殺与奪の実権を握って、物心両面から、一元的に出版物を統制して、国策に協力させようというもの」(『東京堂の八十五年』)であった。

鈴木は陸軍報道部長(委員兼任)の下で同委員会の幹事として陸軍の窓口になった。以来、用紙を求めて出版社の「鈴木詣」が開始され、執務室から階段まで長蛇の行列ができたという1

それから2ヵ月後の7月、第2次近衛文麿内閣が成立した。近衛は挙国一致の戦争指導体制作りを目指す新体制運動を提唱した。今では信じがたいことだが、新体制という言葉がマジック・ワードのようにもてはやされた。新体制の中身をきちんと検証する者もないまま、浮ついた言葉だけが日本中を席巻し、すべての政党・労働組合が解散し、大政翼賛会が発足した。