関係の深まる講談社と陸軍…突き付けられた言論統制のサーベル

大衆は神である(65)
魚住 昭 プロフィール

これから毎月懇談しようじゃないか

講談社と陸軍の関係が深まったのは、これより6〜7年前の満洲事変(昭和6年)のころからである。きっかけを作ったのは、加藤謙一が編集主任をつとめる『少年倶楽部』だった。

『少年倶楽部』は山中峯太郎(やまなか・みねたろう)の「敵中横断三百里」「亜細亜の曙」などの軍事物連載や、田河水泡(たがわ・すいほう)による「のらくろ漫画」で絶大な人気を博していた。そこに目をつけたのが陸軍省の徴募課である。

ある日曜の晩、徴募課の招待で、講談社の編集部門の責任者である淵田忠良が、加藤や、『キング』編集主任の橋本求、出版部長の天田幸男らを引き連れて料亭に行った。

 

天田の証言によると、徴募課側の顔ぶれは課長の松村正員(まつむら・まさかず)大佐のほか、やがて陸軍統制派の理論的指導者として知られるようになる池田純久(いけだ・すみひさ)少佐(陸軍省新聞班が発行したパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』[通称「陸軍パンフレット」。略称「陸パン」]を作成。のちに陸軍省軍事課政策班長)や、岡田重一(おかだ・じゅういち)大尉(のちに参謀本部作戦課長)ら陸軍のトップエリートたちだった。

松村はその席で「満洲事変で陸軍は初めて目が覚めた」と言った。大衆宣伝の重要さを初めて認識したというのである。「そこで国民への宣伝機関をどうしたものかと調べてみた」。

たとえば池田少佐は浅草の公園に行き、ハッピを着て水まきをしながら、観音様の付近の露店の様子を観察した。その他の方面からも課員がそれぞれ分担して調べたところ、国内の出版部数の7割を占める講談社と手を握れば、大衆宣伝はうまくいくという結論になった。

「講談社は皇室中心主義で、軍と思想も一致している。これから毎月一回ずつ懇談しようじゃないか。軍の宣伝に関することで君らの意見も聞きたい」

と、松村は提案した。徴募課と定期的に懇談すれば、陸軍内部の動向がわかるのだから、講談社にとっても悪い話ではない。淵田は応じた。それ以来、徴募課との会合は毎月つづき、講談社と陸軍のパイプはしだいに太くなった。

講談社が昭和14年4月、陸軍省恤兵(じゅっぺい)部の委嘱で、前線将兵の慰問雑誌『陣中倶楽部』を編集することになったのも、そうした関係の深さのあらわれと見ていいだろう。