アダルトビデオの性は本当の性か?

かつてであれば「エロ本」や「エロビデオ」というメディアでしか触れることのできなかった「コマーシャルセックス(商業化された性)」に、現在はスマホで簡単に触れることができてしまいます。

それが本当の性とはまるで違うものであることを、説得力をもって伝えることができますか?実際に面と向かって言葉で伝えるかどうかは別として、少なくともそう言える実感と信念をもっていますか?

桐朋中学校・高等学校の数学教師・荒井嘉夫先生は、例年高3の通常の授業の枠組みのなかで、頃合いを見計らって生徒たちにある雑談をしかけます。「アダルトビデオのなかのセックスが、本当のセックスだと思うか?」と問いかけるのです。男性の屈折した妄想によって過激に演出された世界を映像化したアダルトビデオを見て、それがセックスだと勘違いしてしまう男子生徒が多いことから、もう 20 年以上前に始めた十八番の雑談です。

荒井先生が教育専門誌に寄稿した記事から、一部を引用します。

たとえば、好きな女の子に告白するとき、ラブレターを書くときには、いくら言葉を刻んで記しても想いを十分には表現できないものです。しかし、心を込めて言葉を綴った文章は、言葉で伝えられることを伝えるのと同時に、言葉では伝えられないことも伝えてくれます。身体に触れるというのも、直接は触れることのできない心に触れるということでもあります。そっと、やさしく触れ合う。ぎゅっと抱き合う。その繊細さ、感受性が大切だと思います。こんな話を、具体的な例とともに語っていきます。言葉で、身体で、心で、語り合い、触れ合い、コミュニケーションし、愛する

理想的過ぎるかもしれませんが、そういう話も必要だと思っています。

生徒の「セックス観」がどのように形成されていくのかは、人と人との繋がりを考えるとき、とても重要なことだと思っています。それは、人を「愛する」ということと深く結びついています。さらに、そのことは、自分がどう「生きる」かということについて、心の奥の基盤になっていると思います。そのことを時代はないがしろにしているのではないでしょうか。

セックスを正当化するわけでもなく、汚らわしいものとして排除するのでもなく、愛や生きることと結びつけて話します。セックスがセックスという行為だけでは完結しないということを考えさせます。セックスがいかに根源的で神秘的で高潔な人間活動であるかを説いているのです。

「手紙」は、言葉そのものだけではなく「想い」を伝えることができるときもある。それと同様に、いやもしかしたらそれ以上に言葉では伝えられない「気持ち」を伝えることができるもの。それがセックスだと荒井先生は言う Photo by iStock