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エロスがなければ生きていけない!人間に「愛」が必要なワケ

鬱病から回復した哲学者の答え
友愛、性愛、恋愛、親子愛……。人間同士の間には、さまざまな愛のかたちがある。それらすべてに通じる、ほんとうの「愛」とは何なのか?哲学者・苫野一徳が20年間の思索をまとめた大作『』の冒頭部分を特別公開!

「人類愛教」の夢、破れて

かつて、わたしは全人類を愛していた。「人類愛」。その愛を、わたしはごく単純にそう呼んだ。

当時のわたしには、すべての人類が、互いに溶け合い、結ぼれ合った姿が、ありありと、手で触れられそうなほどの確かさを持って、見えていた。そのイメージは、わたしには「愛」と呼ぶほか言葉の見つからないものだった。

「人類愛」について、当時わたしは次のように言い表していた。

「今存在しているすべての人、かつて存在したすべての人、そしてまた、これから存在するすべての人、そのだれ1人欠けても、自分は決して存在し得ないのだということを、絶対的に知ること」

人類は、たがいに完全に調和的に結ぼれ合っている。それゆえ人類は、そもそもにおいて、本来絶対的に愛し合っているのだ。

それはわたしが人生で味わった最も強烈な啓示であり、恍惚だった。わたしは世界の“真理”を知ったと思った。「人類愛」の真理を、わたしはこの目で見たのだった。

その後、わたしは「人類愛教」の“教祖”になった。なぜ、そしてどのようにしてそのような“宗教”ができ上がり、決して多くはないものの“信者”が集うようになったかという話は、かつて『子どもの頃から哲学者』という本に書いた。

その後に続いた、「人類愛教」の崩壊と、わたし自身の壊れ、そして哲学による再生についても。

「人類愛教」に入信した哲学者たち

“教祖”をしていた頃、わたしは「人類愛」の真理を確かめるため、古今東西の思想書を渉猟(しょうりょう)していた。その中に、わたしはわたしと同じ啓示を受けた人びとを多数見つけた。いや、むしろ宗教家や思想家と呼ばれる人たちは、そもそも「人類愛」の真理に目覚めた人でなければならないと考えていた。

たとえば、古代インドにおける「梵我一如」の思想。これはわたしには、「人類愛」を別様に言い表したものにほかならないように思われた。西田幾多郎の言う「主客合一」や「彼我合一」といった境地も同様である。

19世紀アメリカの超越主義の思想家、ラルフ・ウォルドー・エマソンは、一切は「大霊」(Over-Soul)において1つであると言ったが、エマソンに見えていたものもまた、わたしが「人類愛」と呼ぶものに違いないと信じていた。

ニーチェは、その「ツァラトゥストラ」の思想から強烈なインスピレーションと共に得た。

「人類愛」は人恋しさが作る幻影

今思えば、わたしは多くの思想家の中に、「人類愛」の啓示を受けた仲間を探していたのだった。エマソンに、ニーチェに、西田に、鈴木に、あるいは、ジェイムズが神秘的意識を哲学にまで高めた哲学者として挙げたヘーゲルに、わたしは「人類愛」の思想を仮託した。

彼らからすれば、迷惑な話である。
  
――啓示から数年後、幾人かの“信者”を残しつつも、「人類愛教」は崩壊することになった。

直接の原因は、それまで何年も躁鬱に悩まされてきたわたしの鬱が悪化したことにあった。しかしより根源的な理由は、わたしが哲学に本当の意味で出会ったことによる。

それまでのわたしは、哲学の何も理解していなかった。何しろわたしは、哲学も宗教も、「人類愛」の真理を悟り、それを語るものにほかならないと考えていたのだから。

しかし哲学とは、本来、まず何をおいても自らの確信を確かめ直す営みである。自身の信念や思想を問い直し、それが真に普遍性を持ちうるものであるか吟味する。