「エビデンスで殴る」というやり方は、なぜうまくいかないのか

「エビデンスに基づく医療」から考える
斎藤 清二 プロフィール

少し前になるが、SNSの世界でこんな事件があった。ある著名なアスリートのA氏が、健康に関するある書籍をSNS上で推奨する発信をした。この書籍の内容は、医療者の目から見ると、それを裏付ける科学的なエビデンスがほとんどないと見なされるようなもので、いわゆる「トンデモ本」と言えるようなものだった。

複数の医療者がA氏に対して「この本が薦めている健康法を裏付けるような学術論文はない。つまりこの健康法にはエビデンスが全くない。あなたがこの本を推薦すると間違った健康知識を一般の人に広めてしまうことになる。やめてほしい」とコメントした。

それに対するA氏の反論はこうであった。「私は自分で試してみて実際に自分の身体によいと実感できた健康法が書かれている本を紹介しただけである。他の人にもそれが良いと言っているわけではない。私が自分の経験を発信すること自体は私の自由である」。

さらに続けてA氏は、「私は論文というものがどういうものか知っているし、研究論文の評価が何年かたつと変わってしまうということも知っている。なによりもエビデンスがあるからといってその効果は人それぞれによって違うことも知っている。それを全部承知の上で、私個人の経験を公表している。エビデンスがないからといって、それについて私が発言してはいけないというのはおかしい」と述べた。

それに対して医療者側は「あなたが個人的に何を発信しても自由だが、影響力のある人がエビデンスのない健康知識を宣伝することには害がある」という主張をくりかえすばかりで、議論そのものは平行線に終わった。

しかし、この議論自体には結論が出なかったとはいえ、このようなやりとりは決してむだではなかったように思う。なぜならば、この一連のやりとりは、それを見ていた多くの関係者が、「エビデンス」を「相手を殴る」ためではない方法でどのように使うべきかについて真剣に考えるきっかけになったように見えるからである。

 

エビデンスをめぐる議論はなぜかみ合わないのか

A氏と複数の医療者のやりとりが、不毛な議論にならなかった理由のひとつは、A氏が終始冷静な態度で発言し、問題を指摘した複数の医療者を直接攻撃しなかったという点が大きい。一方で医療者の多くも、A氏のアスリートとしての実績には敬意を払っていた。そこでの「エビデンスをめぐる議論」は白熱していたが、非難合戦のような応酬とは異なるものであった。そのような対話の構造があってはじめて、「エビデンスをめぐる本質的な議論」が可能になったということは重要だろう。

再度、医療者側の主張を単純化していうとこうなる。「エビデンスのないことを推奨しないでください。それは社会に対して害になります」。それに対するA氏の解答はこうである。「私はエビデンスを論じているのではなく、私個人が経験したエピソードについて述べているのです」