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「エビデンスで殴る」というやり方は、なぜうまくいかないのか

「エビデンスに基づく医療」から考える

「エビデンス」は万能か?

SNSをはじめとするインターネット上では、さまざまな社会問題について活発な議論が行われている。特に健康や医療をめぐる話題については、さまざまな人々がさまざまな見解をもつことは当然で、それぞれの意見を交流させることは、社会全体の知識の量と質を高めていくことにも役立つだろう。

しかし、極端に見解が異なる人の間で意見が衝突したり、時にはあまりにも感情的な議論が続いたり、人格を否定したり傷つけあったりするような交流が起こるとすれば、それ自体は好ましいこととは言えない。そのような交流自体が関係者の健康を損ねてしまうこともある。

このような議論の場に足を踏み入れようとすると、まるで地雷原を歩いているような気持になる。少し遡ればホメオパチー(ホメオパシーと表記することもある)などの代替医療をめぐる議論、原発事故の放射能による健康被害をめぐる議論、最近の例で言えばHPVワクチンの接種と副作用を巡る議論、発達障害は治るのかについての議論など、今でも深刻で激しいやりとりが続いている。

 

意見の相違や衝突を避けるのでもなく、かといって互いに傷付けあうのでもなく、できる限り合理的かつ冷静になんらかの判断を行い、それを社会の合意として実行していくことができれば、非常に好ましいことだろう。「エビデンスに基づく意思決定」という考えが登場してきたのはまさにこのような要請に応じてのことだと思われる。その嚆矢は1990年代初頭に登場し、その後世界を席巻した「エビデンスに基づく医療=EBM」である。

しかし、エビデンスを持ち出せば、全てがうまくいくというのは明らかに幻想である。エビデンスという言葉を使うことによって、かえって議論が混乱することのほうがむしろ多いかも知れない。どうしてそうなるのだろうか。

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「エビデンスで殴る」とは?

SNS上で、少し前から「エビデンスで殴る」という表現をみかけるようになってきた。もしエビデンスが、ものごとを合理的に判断し合意をうるための「魔法の杖」のようなものだとしたら、「正しいエビデンスについての知識」は、文字通り最強の武器になるだろう。「私はエビデンスという正しい知識のもとに自分の意見を主張している。しかしあなたの主張にはエビデンスがない(あるいはあなたのエビデンスは間違っている)、だからあなたは私に従うべきだ」というような主張である。

しかし、この「エビデンスで殴る」というやりかたはうまくいかないということが、多くの人の間でしだいに共通見解になりつつある。後述する通り、それは「エビデンス」というものの性質自体に深く関わっている。