古い例えになるが、「西部警察」の石原裕次郎のように若い刑事たちの能力を存分に発揮させ最後の責任をかぶるのが、これから望まれるマネージャーの姿なのだ。
ところが、当サイト3月30日の記事「ゴーンもかつてそうだった…組織のトップは概ね『ゴマすり屋』である」や、8月10日の記事「日本の企業と社会を破滅させる『過剰コンプライアンス』のヤバイ正体」で述べた様に、今や企業には「ゴマすり」と「保身」にまみれた「上司」があふれている。それが、現在の日本企業の閉塞感の最大原因だ。
そもそも、責任を取らないで逃げ隠れするような上司に部下がついていくはずがない。上司に最も求められるのは「責任をとる能力」であり、それが無い人物をマネージャーの役職につけるべきではない。
「一定比率の女性役員」を声高に主張する人々は、役員になることをまるで「働いたご褒美」のように考えているが、これは間違った考えである。
ドラッカーが述べるように、仕事の報酬は給与などで支払うべきであり、役職はご褒美ではない。必要な能力に欠けた人材を、ご褒美として役職につけても悲劇を生むだけである。
ドラッカーは、同族会社の経営において、能力の無い親族を役職につけてはならないと述べる。「もし、その親族の生活を助けたいというのなら、仕事にはつかせずに、給料だけ払いなさい」というのだ。
その無能な親族に役職を与えて仕事につかせれば、給料を無駄にするだけではなく、「創業家一族の俺様をないがしろにするのか!」という親族の怒りと、「無能なくせに、創業家の一族だからと言って威張りやがって」という多くの部下の怒りで、会社の経営に多大な悪影響を与えるのだ。