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右・左はもういらない…ルソーとロックで理解する社会の本当の姿

哲学者が語る近代のしくみ
8月20日に発売された『資本主義に出口はあるか』(講談社現代新書)。今回はその著者である荒谷大輔氏に、自身の専門とする哲学の役割について、またロックとルソーの対立軸で歴史を読み解くという大胆なアイデアについて、伺っていく。

哲学でクリティカルなポジションを獲得する

—— 荒谷先生は哲学がご専門なわけですが、まず先生の考える哲学の定義について教えていただけますか。というのも、新著『資本主義に出口はあるか』を拝読させていただくと、先生のお考えになる哲学は、いわゆる「教養」としての哲学とはやや異なるような印象を受けるからです。

例えば、「自分のものは自分のもの」という考え方は私的所有と呼ばれますが、それは近代の枠組みのなかで成立しました。でも、「それって本当に正しいの?」なんて誰もあえて問わないですよね。

 

哲学がやっているのは、社会で「当たり前」になっていることが実際にはそれほど当たり前ではないことを明らかにすることです。そうすることで反対に、当たり前が当たり前として維持されてきた経緯を説明することもできます。哲学というのは、そもそもそういう営みだったと僕は理解してます。

—— 当たり前を疑うことに価値があるのはよくわかります。では、哲学書を読むことでそれを実現することはできますか?

哲学書を読むことと当たり前を疑うことは、実は繋がっています。ただ、手段が目的化する、ということがありますよね。細かくテクストを読んで、精緻な読解を行なう哲学の論文が、「よい論文」といわれるわけですが、そこで本来の意味での「哲学」が落ちてしまう場合があります。

それでも、テクストを読むことと当たり前を疑うことは密接に関連しています。これは今回の本ではあまり全面に出てない論点ですが、説明しておきます。

例えば、デカルトのテクストを細かく突き詰めていくと、ある言葉が何を意味するのか、ということがわからなくなることがあるのです。例えば「idea」という言葉があって、それはふつう「観念」と訳しますが、デカルトのなかで観念という言葉がどう使われているかを辿ると、「観念」という言葉自体がわからなくなるのです。

デカルトの「観念」の使い方は、われわれの使い方と明らかに異なります。しかし、歴史的に見るとデカルトの「観念」は、いまわれわれが使ってる言葉の起源のひとつになっているはずなのです。

起源であるのに違うというのはどういうことか? そこで、デカルトのテクストのなかで、「idea」という概念がどう使われているかということを細かく調べていく作業をすることで、私たちが日常的に保持している「当たり前」の方が解体され、その当たり前がどうやって成立したかという観点から現在を見直すことができるわけです。これがつまり、クリティカルなポジションを獲得するということにほかなりません。

このように、既存の枠組みを前提にすることなく、その枠組み自体を相対化していくのが哲学の本来の役割だと思うのです。