海軍戦闘機隊きっての名パイロットとして知られていた中島三教さん(右の晩年の写真は、撮影/神立尚紀)

生きているのに靖国に祀られ…捕虜となった凄腕零戦パイロットの葛藤

「日本に帰れば死刑になるかもしれん」

大日本帝国の軍人(民間人も)は、捕虜となることを「恥」とする感情があった。それは、最前線で戦って捕虜となった者は英雄だと考える欧米の軍人とは、正反対の価値観であり、そのために、失われなくてもいいはずの多くの命が戦場に散っていったことは否めない。

今から76年前、南太平洋の最前線で戦っていた海軍でも有数の凄腕パイロットが、武運つたなく捕虜となった。戦時中、彼は戦死したと認定され、靖国神社に英霊として祀られることとなった。

だが、その英霊は、捕虜となったあと、太平洋の島々、そして米国本土の捕虜収容所を転々とさせられていた。「捕虜になるくらいなら死を選べ」と教育されていた男は、その間、何を見て、何を考えていたのでだろうか。

 

最前線では捕虜になるかどうかは紙一重

「私の同年兵(同じ年度に海軍に入った兵)の戦闘機乗りに、中島三教(なかしま・みつのり)という大の仲良しがいました。音に聞こえた名パイロットで、日本舞踊の名手でもありました。ソロモンで不時着して、現地人にだまされて捕虜になった男です。本人は、捕虜になったことを恥じて、長いあいだ戦友会にも出てこなかったけど、そんなの気にすることないからと一生懸命誘って、最近やっと出てきてくれるようになったんです」

と、元零戦搭乗員・原田要さんは言った。私が生き残り搭乗員の取材を始めたばかりの平成7(1995)年のことである。

当時、長野県で幼稚園を経営していた原田さんは、私が最初に出会ったゼロファイターだった。原田さんも、ガダルカナル島上空の空戦で負傷、不時着し、それがたまたま味方陣地の近くだったため、救出されたという経験を持つ。

「敵味方が混在する最前線で、味方に助けられるか敵軍の捕虜になるかはまさに紙一重です。自分の経験からも他人事とは思えなくて……。気のいい男でね、真正直に生きてきた。紹介するから、中島さんの話もぜひ聞いてみてくださいよ」

「生きて虜囚の辱を受けず」という言葉は、近代日本の軍隊の道徳律を表すものとして、いまや広く知られている。この文言自体は、昭和16(1941)年1月、東条英機陸軍大臣の名で陸軍内部に示達された「戦陣訓」の一節にすぎず、海軍はこれには縛られない。

そもそも陸海軍には「俘虜査問会規定」という規則があって、軍人が戦闘で捕虜になりうることは想定されていたから、示達にすぎない「戦陣訓」の教えは絶対的な拘束力を持つほどのものではない。海軍に籍を置いた人のなかには、陸軍にこのような示達や文言があったこと自体、知らなかったという人も多い。

――だが、当時の一般的な日本人の通念とすれば、やはり、捕虜になることは「恥」であった。「戦陣訓」のなかった海軍でも、将兵に対し、捕虜になったときの心構えなどを教えることはなかったし、捕虜になるなら潔く死を選べ、と教え込んでいた。

捕虜を、最前線で義務を果たした戦士として、むしろ英雄的に扱う西洋的価値観とは正反対の世間の「空気」が、軍民問わず、理屈抜きに醸成されていたと言える。そのため、あたら助かるべき命が数多く失われ、残された家族を悲嘆の淵に追いやったのだ。

それでも、支那事変から太平洋戦争にかけて、敵軍の捕虜になった日本軍将兵は意外に多い。ほとんどが不可抗力によるものだが、そんな戦中の日本的な「空気」は、戦後も長い間、彼らを苦しめた。

金鵄勲章を授与されるほど活躍したパイロット

原田さんの紹介を得て、大分県別府市に暮らす中島さんを初めて訪ねたのは、平成8(1996)年春のことだった。取材依頼の手紙を書き、電話をしたとき、中島さんは、

「捕虜になった私に、人様に語るような資格はないですがな……」

と、はじめは困惑した様子だったが、他ならぬ原田さんの紹介ならと、快くインタビューを承諾してくれた。以後、私は何度か別府を訪ね、平成19(2007)年、中島さんが93歳で亡くなるまで交流が続いた。

中島三教さん

「私は、アメリカに捕まってから頭がおかしゅうなって。何もかも忘れてしまったんです。戦争が終わるまでは戦死の扱いで、靖国神社にも祀られとった。戦死認定後、家族に合祀の通知があったらしいです。戦後、靖国神社に生きて帰ったことを申し出ましたが、一度合祀したものは取り消しはできん、ということで、いまも『中島三教命』は祀られたままなんです。東京に行ったとき、『遺族でも戦友でもなく、祀られてる本人じゃ』と言うて、お参りさせてもらったこともありました」

中島さんは大正3(1914)年4月1日、大分県宇佐郡に、7人きょうだいの三男として生まれた。大分県立中津中学校(現・県立中津南高等学校)を経て、一般志願兵として海軍を志願、昭和8(1933)年5月1日、海軍四等水兵として佐世保海兵団に入団した。

基礎教育を終えて空母「加賀」乗組を命ぜられ、砲術科に配属された中島さんは、そこで見た飛行機の姿に心奪われ、搭乗員を目指して操縦練習生を受験。数十倍の難関を突破し、昭和10(1935)年5月、第二十九期操縦練習生となる。練習機での操縦訓練を経て、選ばれて戦闘機専修と決まり、同期生13名とともに大村海軍航空隊に入隊した。

「大村空の頃、休日になると日本舞踊を習いに行ってました。そのほかにもいろいろな出来事があったはずなんですが、この頃のことはもうほとんど覚えとらんのですよ」

昭和12(1937)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した「盧溝橋事件」を皮切りに「北支事変」が勃発すると、海軍はただちに航空兵力を大陸に派遣することを決定、第十二航空隊を大分県佐伯基地で、第十三航空隊を長崎県大村基地で編成した。

8月9日、上海で大山勇夫海軍中尉、斎藤與蔵一等水兵が中国兵に射殺されたことをきっかけに「第二次上海事変」が勃発、海軍は空母「加賀」「龍驤」「鳳翔」を上海沖に派遣、艦上機をもって南京、広徳、蘇州の中国(中華民国)軍飛行場攻撃を開始、早くも烈しい航空戦が展開された。戦火は拡大の一途をたどり、9月2日、これら両事変を総称して「支那事変」と呼称することが閣議決定されている。

中島さんは第十三航空隊に配属され、9月9日、いまだ砲声の鳴りやまない上海・公大飛行場に進出した。乗機は当時の最新鋭機・九六式艦上戦闘機(九六戦)だった。

そして9月19日、山下七郎大尉以下、九六戦12機が艦上爆撃機を護衛して出撃した第一次南京空襲に参加、中島さんは以後、連日のように続いた戦闘で、中国空軍のソ連製戦闘機ポリカルポフE15、E16(И-15、И-16を、日本海軍、中華民国空軍ともにそう呼んだ)やアメリカ製戦闘機カーチス・ホークなどを相手に撃墜を重ねた。

その活躍はめざましく、のちに「勲功抜群」のあかしである功六級金鵄勲章を授与されている。ところが、いざ話題が戦闘におよぶと、中島さんの口はとたんに重くなった。

「空戦の話はあまりしたくない。人を殺したわけですからね。誰に聞かれてもしたことはありません。戦争はもう嫌です。戦争なんかないほうがいい……」

9月26日の南京空襲では、指揮官として出撃した山下七郎大尉が敵地に不時着、重傷を負って中国軍の捕虜になり、中島さんは衝撃を受けたという。

「山下大尉は、そりゃあもう、大和魂の権化のような人で、非常に気性のはげしい人じゃった。それが捕虜になって、こりゃ全然わからんもんだわい、と思ってびっくりしました。あとになって、本人が上半身裸で体操をする写真が送られてきたりもしました。奥さんは福岡の自宅のまわりに竹囲い(蟄居謹慎をあらわす)をして、気の毒な生活をしておられたそうです」

山下大尉は成都監獄で終戦を迎え、終戦後の昭和21(1946)年2月7日、中国軍によって処刑された。

空戦の話をしたがらない中島さんだったが、それでも特に印象的な出来事はあったらしく、心を開くにしたがい、ポツリ、ポツリと戦闘の話も出てくるようになった。九六戦は最初の頃、故障が多く、敵地上空でエンジンが止まり、死を決意したこと。味方の軍艦から敵機と誤認され、対空砲火で撃墜され、負傷した経験――。