日本の軍部は、こうして言論を統制した〜基準を作り忖度させる巧妙さ

大衆は神である(64)
魚住 昭 プロフィール

「同じようなことが、京都の染物組合でも問題になった。着物の柄をどの程度まで派手にしてもいいものか、どの程度の柄が時局にふさわしくないのか、どこに聞いても分からない。やっぱり最後は報道部にきたね。これはあの若い中尉が判定した」

と、まだ若い中尉を指さした。京都に出張して、一つひとつの柄を判定して基準を作ったというのである。そうしてMはこともなげに言った。

「君たちはS少佐(鈴木庫三)を、うるさい厄介な男だと思っているかもしれないが、なあに簡単なもんだよ。Sの判定の基準をのみこんでしまえばいいんだよ」

M大佐のご高説に社の先輩たちからの反論はなかった。会合を終え、辻は星ケ岡の坂を下りながら、だんだん難しくなる世相を心にかみしめていた。みんなも黙りがちであった。それぞれの思いにふけっていたのだろう。黙々と暗い坂を下りた記憶だけが辻の記憶に残っている。

 

内務省や軍当局との深まる接触

鈴木庫三は、戦時中の言論界で最も恐れられ、忌み嫌われた「日本思想界の独裁者」(清沢洌<きよさわ・きよし>の『暗黒日記』)だった。この章の冒頭で述べたように、昭和16年はじめ、講談社に顧問制を導入させたのも彼である。

簡単に彼のプロフィールを紹介しておこう。茨城県出身、はじめ兵として入隊し下士官になり、猛勉強の末に陸軍士官学校へ入学した。卒業後、陸軍の派遣学生として東京帝大で教育学を学び、陸軍自動車学校教官を経て、陸軍省新聞班(のち情報部→報道部)に配属された。ひと言でいうなら、陸軍大学校出のエリートとは畑のちがう、「たたき上げのインテリ軍人」である。

佐藤卓己著『言論統制──情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)によると、昭和13年8月に陸軍省新聞班(翌月、情報部に昇格)入りした鈴木少佐の主務は雑誌指導、すなわち内閲などを通じて雑誌をコントロールすることだった。

内閲とは、雑誌などの発行前、原稿や校閲刷りの段階で行われる検閲のことで、昭和12年8月(盧溝橋事件の翌月)から、発禁による経済的ダメージを恐れる出版業者の要請で始まった。

この内閲の情報を得るため、出版業者と当局側の懇談会が組織され、同年9月から内務省内での出版懇話会が始まった。翌13年になると、海軍報道部、陸軍情報部、陸軍航空本部がそれぞれ月例の雑誌懇話会を開くようになった。