最後のとどめを刺すとき、鈴木少佐はすっくと立ち上がっていた。
「お前たちは新聞社の人間じゃないか。新聞は時世を察するに非常に明敏だ。すばやく、頭をきりかえてゆく。それなのに、お前たちの頭はどうしてきりかえられないのか」
と、しゃがれた声を大きくして、どんと机を叩いた。暑い日だったが、扇子を使うのも忘れて立ったまま、説教を食らっていた大竹のやせた顔が青ざめていた。
「あれが幽霊の正体か。とうとう姿をあらわしたな」
辻が帰りの車の中でそんなことを考えていたら、大竹は、
「お前たちは、といいよったなあ」
と、ぽつんと言った。こんな態度で扱われたのは、それまで、どこの官庁でもまったくなかったので、腹にすえかねているらしいのが、その口調にうかがわれた。
この日から急角度で『サンデー毎日』の表紙の絵も写真も変わった。従来は女優の顔が大きく出ていたが、それが桃太郎人形や赤ん坊の笑顔や、日本軍の敵前上陸の表紙に変わり、編集の混乱ぶりが露呈された1。
陸軍軍人たちの遺恨
鈴木少佐に脅されたのは、『サンデー毎日』編集部だけではない。彼の傍若無人な言動の“被害者”はそれこそ枚挙にいとまがない。
それにしても、なぜ、陸軍の一少佐にすぎない彼が「独裁者」といわれるほどの権力を持つに至ったのだろうか。理由の背景ないし一端を知るうえで貴重なエピソードを辻は書き残している。
そのころ、大阪毎日新聞(東京日日新聞)の出版関係者が「ご高説拝聴」という名目で陸軍報道部のお歴々を星ケ岡茶寮(北大路魯山人が顧問をつとめた超高級料亭。永田町にあった)に招待したことがある。辻もその末席に連なった。
ところが顔なじみの少ない両方の顔ぶれなので、なかなか話もはずまなかった。そのうち陸軍報道部長が口火を切った。M大佐だった。
「このごろは新聞記者もさっぱりのようだね」
M大佐は濃い口ひげの厚い唇で、よく肥えていたが、精悍な顔つきだった。
「新聞記者もいい時代があったね。相手が大臣でも、やあ、とかいって、肩をたたいてまるで友だちづきあいのような口をきいてさ。そんな時代があったじゃないか。大臣室で葉巻を二、三本ポケットへいれても大臣はなんともいわない。怒りもしない。そんなころ、俺たちは惨めな目にあったこともあったよ」
と、M大佐は言うのである。彼はそのころ中尉か大尉だった。富士のすそ野かどこかの陸軍演習へ、貴族院や衆議院の議員たちを案内したことがあった。陸軍の予算をうまく通してもらうために、これらの議員を接待するのである。若き日のMはその接待係を命じられた。