その夜、ぼくは顧客との宴席を終えると、昔よく通ったバーに向かった。
誰にも相談できなかった。一人で考えていると、酒だけがいつまでもつき合ってくれそうな気がした。飲みに行くことはほとんどないが、なぜ多くのサラリーマンが酒に頼るのかがわかったような気がした。
間違いなく、ぼくはまずい状況に追い込まれていた。社長の資金流用という、背任事件への関与が疑われている。しかもぼくに罪をかぶせようという動きがあるという。自分の身を守るためにも、実際に行われたことを洗いざらい話せというのが野木の助言だった。
ぼくは、誰を信じればいいのだろうか。顧客であるQ社の情報には守秘義務があるが、黙っていれば自分に害が及びかねない。もし仮にぼくが追及された場合、会社は守ってくれるだろうか。
いくら考えても、結論が出そうになかった。
先に結論を出したのは、マーケットだった。大口の投資家の売りがきっかけだった。捜査の本当の狙いが背任にあるという報道は、市場が動くには十分だった。ベンチャー企業の信用力は、多くを社長個人に負っている。Q社の存続すら危ぶまれはじめていた。
昼過ぎに、野木から電話があった。
「負けだよ。先に書かれた」
「何のことだ?」
「とぼけるなよ。Q社についてだよ。インターネットに出てるだろ?」
ぼくはブルームバーグでニュースを検索した。たしかに、別の新聞社系のサイトが背任事件を報道している。マーケットは、このニュースに反応したのだろう。すでにQ社の株価はストップ安をつけていた。
「今気づいたよ。君の会社が報じたんじゃないんだな?」
「そのはずだったんだけどな。俺はてっきり、君が記者に流したのかと思ってたよ」
「俺がそんなことをするはずがないだろう」
「まあ、そうか。いずれにしても完敗だ。またあらためるよ」
野木はそういうと、ぼくの反応も待たずに電話を切った。
取材先に向かう、車のなかからだったのだろうか。ひとことも聞き漏らさまいといういつもの雰囲気が感じられないのが、逆にこの事案に対する執念の強さを示していた。
おそらく野木にとって、負けられないディールだったのだろう。自分の持つ力を総動員する姿を目の当たりにしていただけに、気の毒に思えないこともなかった。
ただ、彼にとっては一つのディールでも、ぼくにとっては大事な人生がかかっていた。つり合いが取れるわけがない。正常な判断ができなくなっているぼくを、救ってくれたのがマーケットだったのかもしれない。
Q社をめぐる報道合戦がはじまったのは、この後のことだった。未公表の情報が、関係者の発言という形で毎日のように新聞紙上をにぎわせることになる。ぼくが関与したという疑いは、もう聞かれることはなかった。
【「東京マネー戦記」は隔週掲載。次回は9月7日(土)公開予定です】