大学時代の野木は、国際金融のゼミで知らない者はいなかった。切れ者で金融知識に詳しいばかりか、マーケットもよく勉強していた。研究発表会でメモも見ずに話す姿は、テレビのコメンテーターのようだった。
そんな彼が、就職先として財務省を選んだことに驚きはなかった。インターンとして外資系の証券会社で働いていたくらいなので金融機関も検討したようだが、彼のプライドを充たすのは官僚だったのだろう。財務省に行く学生はほとんどいない大学だった。
驚いたのは、数年で辞めたと聞かされたことだ。官僚の硬直的な組織に馴染めなかったのだろうか。あるいは国立大学出身者ばかりのなかで、自分の未来をうまく描けなかったのだろうか。
金融担当の記者とはいえ、泥臭い取材が中心の仕事だ。くたびれたジャケットを着てメモを取る野木の姿を見ていると、彼の変化を思わずにいられなかった。
ぼくはこの頃、Q社というITベンチャーの粉飾決算事件に追われていた。創業メンバーのひとりである社長が主導して、過剰な利益を計上したという容疑で当局の捜査が入っていた。社長とも面識があっただけに、ぼく自身が対応にあたることが多かった。
野木から飲みの誘いを受けたのは、取材を受けた翌月の9月のことだった。
「君もよく転職しようと思ったな。官僚から民間企業に行くなんて、そう多くないだろう」
「まあな。世のなかの仕組みを維持することにしか、関心のない人間が幅を利かせる世界だ。俺の好奇心を満たすものは何もなかった。だから辞めただけだよ」
「今の仕事には、面白いものがあるのか?」
「少なくとも、世のなかは動いてるからな。緊張感はぜんぜん違うよ」
野木は話題を切り上げるように、2杯目のジョッキを頼んだ。
「今日訊きたいのは、Q社の件なんだ。君が担当してるんだろ?」
「何で、そんなこと……」
「簡単なことだ。あの会社のエレベーターホールで見かけたから、もしかしたらと思ったんだ」
「世間は狭いな。いくら君が相手でも、あの会社のことは話せないぞ」
「わかってる。俺にだって記者としての常識はあるつもりだ。そんなありきたりな話を聞くために、君を誘ったんじゃない」
「それならいいんだ」
ぼくは、お通しとして出されたキュウリの浅漬けを食べた。野木の真意がわからず、反応を伺う時間が欲しかった。