人は理性でしか誰かを愛せない?

哲学者が考える「愛」のかたち
苫野 一徳 プロフィール

カントが言ったように、わたしたちの理性は究極を推論せずにはいられない本性を持っている。世界の始まりはあるのかないのか。その究極原因を、わたしたちは推論せずにはいられない。神はいるのか、いないのか。

わたしたちの理性は、こうした世界の根本原因を推論せずにはいられない。そしてそれゆえにこそ、神や世界の始まりなどについて、決して確かめることのできない形而上学的な世界像を思い描くことになるのだ。

 

「愛」も同様である。「愛」の概念をわたしたちが獲得して以来、わたしたちの理性は、その究極の姿を推論せずにはいられなかった。そうしていつしか、現実にはありもしない究極的な「愛」のイメージを、さまざまな仕方で思い描くようになったのだ。

しかし愛の本質を正しく捉えるためには、わたしたちは愛の理想理念に思いをいたすのではなく、この現実の世界、現実の生活において、〝このわたし〟に確かに味わわれている愛の体験、その理念的情念の本質をこそ洞察しなければならない。そしてその普遍性を、広く問い合わなければならないはずなのだ。

恋愛と親子愛に共通するものとは?

本書でわたしは、この「愛」の〝理念性〟の本質を明らかにした。性愛、恋愛、友愛、親の子に対する愛……。愛にはさまざまな形があるが、これらはいずれも、本来まったく異なったイメージを与えるものである。にもかかわらず、なぜこれらは「愛」の名で呼ばれうるのか?

それは、そこに「愛」のある〝理念性〟の本質が通奏低音のように響いているからである。性愛も恋愛も友愛も親の子に対する愛も、その「愛」の通奏低音の上に、それぞれ独自の音色を響かせているのだ。

あるいはこうも言える。エロティシズム、恋、友情、親の子に対する愛着……。これらは、互いにまったく異なる情念である。しかし、これらが「愛」の〝理念性〟の本質を帯びた情念へと育て上げられた時、わたしたちはそれを、性愛、恋愛、友愛、そして親の子に対する愛と呼ぶことになるのだと。本書の目的は、これら「愛」の名のもとに包摂されるありとあらゆる「愛」の本質を明らかにすることにある。

その探究の先に、わたしたちは、「愛はいかに可能か?」の問いもまた、力強く明らかにすることができるはずである。

「愛」とは何か、そしてそれはいかに可能か? これが、本書でわたしが挑み、そして明らかにした問いである。