特攻基地でも飼われていた…!最前線で戦う若者たちが愛した犬たち

出撃の直前まで犬をかわいがっていた
神立 尚紀 プロフィール

殺気立った気持ちがスッと落ち着く

昭和15年9月13日、進藤三郎大尉が率いる十二空の零戦隊は、中華民国空軍のソ連製戦闘機約30機と初めて交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国空軍の記録では被撃墜13機、損傷11機)、零戦の損失ゼロという一方的勝利をおさめた。

 

この空戦で進藤さんに感状が授与されたことを報じる11月17日の中国新聞には、進藤さんの飛行服姿の顔写真入りで、

〈感状に燦たり海の荒鷲 廣島っ子・進藤大尉 床しや控えめに校々語る両親〉

との見出しで両親のインタビュー記事が掲載され、そのなかで、

〈三郎の今度の武勲もみんな郷土の皆さまのご後援の賜です
 と言葉少ない夫妻に代つて大尉が可愛がつている愛犬チロが主人の武勲をたたへるかの如く日本犬の逞しさを両耳に見せて吠え立てる〉

と、飼い犬の「チロ」のことにも言及している(私が飼っていたチロと同じ名前なのは単なる偶然である)。

進藤大尉(のち少佐)はその後、空母「赤城」に乗組み真珠湾攻撃に参加。さらに南太平洋の海軍の拠点・ニューブリテン島ラバウル(現・パプアニューギニア)で戦うが、そこでも現地で拾った子犬を可愛がっていた。特に名前はつけず「ワン公」と呼んだそうだが、顔中髭もじゃの進藤さんが、「ワン公」を抱く写真がアルバムに残っている。

「ワン公」を抱く進藤三郎さん。昭和18年、ラバウル基地にて。進藤さんの犬好きは生涯変わらなかった

進藤さんは平成12(2000)年2月2日、88歳で亡くなるが、80歳の頃、海軍兵学校六十期のクラスメート・鈴木實さん(中佐)の飼い犬・ジョン(雑種)がエサを食べているところにちょっかいを出し、怒ったジョンに噛まれて手の腱が見えるほどの大怪我をしたことがある。おっちょこちょいとも言えるが、生来の犬好きとすれば、犬を見ると手を伸ばさずにはおられないようだった。

鈴木實さんが率い、蘭印(現・インドネシア)のセレベス島(現・スラウェシ島)ケンダリー基地を本拠に、オーストラリア本土のダーウィン空襲などに任じていた第二〇二海軍航空隊(二〇二空)では、隊員たちがめいめいにペットを飼っていた。隊員だった元零戦搭乗員・吉田勝義さん(のち飛曹長)は語る。

「ケンダリー基地の宿舎は湿気を防ぐため高床式になっていて、床下には人が少しかがめば歩けるほどの空間がある。搭乗員たちはそこで、犬や猫はもとより、ポケットモンキー、オウム、ニワトリなど、さまざまな動物を飼い、めいめいで世話をしていました。私の予科練同期で鳥取県出身の徳岡時寛二飛曹は、『ゼロ』と名づけた雌犬を飼っていて、どこへ行くのにも連れていました。よくなついて、可愛かったですよ。

マカッサル(セレベス島南西部)には銀座の清月堂(現存)が店を出していて、そこでアイスクリームが買えました。ケンダリーからマカッサルまでは180浬(約333キロ)あるんですが、搭乗員同士でジャンケンをやって、負けた者が大きな魔法瓶を零戦に積んでマカッサルまでアイスクリームを買いに行く。徳岡が行くときは、ゼロも一緒に零戦に乗せていました。

作戦行動中の基地からの上陸(外出)は原則として禁止されていますが、私らは、『上陸禁止って言ったって、俺たちには足があるんだ』と、車庫員に出させた軍用トラックの荷台に乗り込み、連れだって外に出て行ったものです。トラックが出て行こうとすると、『オーイ、待ってくれ』と、分隊長の塩水流俊夫中尉までもが無断外出に加わる。われわれ搭乗員は、ガソリンの臭いが染みついた半袖半ズボンの白い防暑服かランニングシャツ姿で、肩にはそれぞれのペットを乗せている。なかには猿とオウムが両肩で喧嘩しているのに平気な顔で歩いている者もいました」

猿を飼う隊員もいた。昭和18年、ケンダリー基地にて、零戦をバックに。右は寺井良雄一飛曹(同年9月7日戦死)

当時の二〇二空搭乗員の写真を見ると、動物と一緒に撮られたものが何枚もある。徳岡二飛曹が「ゼロ」を抱いた写真もあるし、草原の飛行場で、零戦をバックに搭乗員が並ぶ足元に、「ゼロ」がたたずむ写真も残っている。だが、可愛がっていた徳岡さんは昭和18(1943)年5月9日に戦死。「ゼロ」は飛行場で、還らぬ飼い主を待ち続けていたという。その後しばらく、吉田さんたち搭乗員仲間が世話をしていたが、ある日、「ゼロ」は忽然と基地から姿を消した。二〇二空も、その後、ニューギニアから中部太平洋、フィリピンと移動を重ねて壊滅、解隊されたので、「ゼロ」がその後、どうなったのかは誰も知らない。

「ゼロ」を抱く徳岡時寛二飛曹。昭和18年、ケンダリー基地にて。徳岡二飛曹は同年5月9日に戦死、「ゼロ」は還らぬ飼い主を待ち続けたが、ほどなく基地から姿を消した
ケンダリー基地で、零戦をバックに。右が徳岡二飛曹、中央は塩水流俊夫中尉。徳岡二飛曹の足元に「ゼロ」がたたずんでいる

やがて戦局は日本にとって次第に不利となり、日本本土への空襲も激しさを増して、昭和20(1945)年になると、内地の航空基地が事実上の最前線となっていた。

二〇二空から、茨城県の筑波海軍航空隊に転勤した加藤清さん(旧姓・伊藤。飛曹長)は、筑波基地(現・笠間市)で、「シロ」と名づけたシェパードを飼い、可愛がっていた。

東南アジアやオーストラリア本土上空で、零戦を駆って32機もの敵機を撃墜破し、二〇二空司令より特別表彰を受けた加藤さんは、戦争に負けたことが悔しくて、戦後も長いあいだ、飛行機が頭上を飛んでも顔をそむけるほどだった。家族にも、戦争の話は一切しなかったが、長女・紀代実さんによると、かつて筑波空で飼っていた「シロ」がいかに賢く、自分が可愛がっていたかということだけは、懐かしそうに語っていたという。シェパードがなぜ「シロ」と名づけられたか、また「シロ」がその後どうなったかは不明である。

零戦搭乗員・加藤清さんと、シェパードの「シロ」。昭和20年2月下旬頃、筑波海軍航空隊にて

同じ頃、神奈川県厚木基地の第三〇二海軍航空隊で、局地戦闘機「雷電」に搭乗、米爆撃機ボーイングB-29を撃墜した山川光保さん(上飛曹)が、子犬を抱いた写真も残っている。当時は野良犬が多く、どこからともなく基地に迷い込んだり、飼われてそこに居ついたりすることが多かったのだ。

「連日のように出撃、出撃待機で、明日をも知れぬ日々ですからね。そんななかで子犬がなついてきたりすると、殺気立った気持ちがスッと落ち着くような気がしましたよ」

と、山川さんは言う。厚木基地で山川さんが可愛がっていた子犬には名がなく、その後のこともわからない。だが、この写真は、思い出の1枚として大切にアルバムに貼られていた。

厚木基地で、子犬を抱く「雷電」搭乗員・山川光保さん。この子犬に名はつけられなかった