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# 哲学・思想

恋愛、友愛、性愛…すべての「愛」に通じる本当の「愛」とは

哲学者が考えた、私たちの愛の本質

「愛」について20年考えた

講談社現代新書から上梓したばかりの拙著新刊『』は、構想20年、執筆に2年半をかけた、わたしにとっておそらく最も大切な哲学作品となるものだ。

「愛」の探究へとわたしを駆り立てることになったそもそもの動機は、20年近く前、長い躁鬱病に苦しんでいた頃に、突如として「人類愛」の啓示に打たれたことにある。

 

すべての人類が、互いに溶け合い、結ぼれ合った姿が、その時のわたしには、ありありと、手で触れられそうなほどの確かさを持って見えた。そのイメージは、わたしには「愛」と呼ぶほか言葉の見つからないものだった。

この「人類愛」を、やがてわたしは次のように言い表すようになる。「今存在しているすべての人、かつて存在したすべての人、そしてまた、これから存在するすべての人、そのだれ一人欠けても、自分は決して存在し得ないのだということを、絶対的に知ること」。

人類は、互いに完全に調和的に結ぼれ合っている。それゆえ人類は、そもそもにおいて、本来絶対的に愛し合っているのだ。

それはわたしが人生で味わった最も強烈な啓示であり、恍惚だった。わたしは世界の“真理”を知ったと思った。「人類愛」の真理を、わたしはこの目で見たのだった。

その後、わたしは「人類愛教」の“教祖”になった。なぜ、そしてどのようにしてそのような“宗教”ができ上がり、決して多くはないものの“信者”が集うようになったかという話は、かつて『子どもの頃から哲学者』という本に書いた。その後に続いた、「人類愛教」の崩壊と、わたし自身の壊れ、そして哲学による再生についても。

「人類愛」は本当に存在するのか?

「人類愛教」崩壊の直接の原因は、それまで何年も躁鬱に悩まされてきたわたしの鬱が悪化したことにあった。しかしより根源的な理由は、わたしが哲学に本当の意味で出会ったことによる。

哲学とは、まず何をおいても自らを確かめ直す営みである。自身の信念や思想を問い直し、それが真に普遍性を持ちうるものであるか吟味する。

その過程において、わたしは、「人類愛」は、じつはわたしの病的な精神が作り上げた、独りよがりなヴィジョンだったのではないかという疑いを抱くようになった。あれほどありありと見えたあの「人類愛」のイメージは、しかしじつは、わたし自身のある欲望によって作り出された、一つの幻影だったのではないか、と。

わたし自身の、ある欲望によって——?

端的に言えば、それはわたしの「孤独を埋めたい欲望」だった。子どもの頃から、だれからも理解されない、だれからも愛されたことがないと思い込んでいたわたしは、長い間、大きな孤独を抱えていた。

それが、ある時人生最大の躁状態が訪れたのに伴って、いわば反動的に、わたしに「人類愛」のヴィジョンを強烈に与えたのだ。わたしが愛されていないはずがない。なぜなら本来、人類はそもそもにおいて愛し合っているのだから!