毛利元就を「もとなり」と読む本当の理由、ご存知ですか?

<日本史のツボ>のツボ 第4回

私の「令和天皇」事件

綸言(りんげん)汗の如し、という言葉はご存じですか? 汗は身体から出たら引っ込むことはない。天皇の言葉も同じ。一度発せられたら、「あれはなかったことに」と改めることはできない。それくらい天皇の言葉は重いのだ、ということです。

綸言というのは天皇の言葉、の意味。「綸」という漢字はこのように天皇について使われて、ですから天皇の命令書を「綸旨」と呼びます。

 

これに対して皇太子、もしくは親王の命令書を「令旨」という。「令」という漢字は天皇ではなくて、一つ下。皇太子や親王を意味します。敬称でいうと、陛下ではなく殿下のレベル。

だから後世、現在の天皇陛下を「令和天皇」とお呼びするのはいかがなものかなー、矛盾じゃないのかなーと感じた。天皇陛下が中世史の優れた研究者でいらっしゃるだけに(博士号をおもちです)、その思いが強かった。

それで、その旨を発言したら案の定、大炎上いたしました。みんなが「令和」を喜んでいるときになんだ、空気読め、ということですね。わかります。家内からも「余計なことを言って。キジも鳴かずば撃たれまい、というじゃないの」ときつく怒られましたが、曲学阿世と指さされるのは研究者の恥ですから,仕方がありません。

平安から鎌倉にかけての「綸旨」

さて、本題に戻って。中世史を勉強していると、綸旨はそれなりの量が出てくる。朝廷の意志を表現する最も格の高い文書形式は、天皇の命令書になりますので、律令の定めるところだと「詔勅」です。

ところがこれは作成にものすごく手間がかかる。それで「太政官符」が用いられるようになる。ところが、この文書も「天皇御璽」などの判を押すために招印の儀という厳密な儀式を必要として、作成が面倒なのです。

それで平安時代になると、次第に「官宣旨」が代わりに用いられるようになる。これは「勅(天皇の意志)を承るに」という文言が必ず記される文書形式で、上級貴族が天皇の意向を受けて作られる。

ところが平安時代の末になると、官宣旨すらも作られなくなり、「綸言かくの如し」と中級貴族が天皇の意志を通達する「綸旨」が出されるようになります

鎌倉時代では、朝廷の格の高い文書というと、先ず以てこの綸旨。もしくは上皇が政治を見ているときは、上皇の意志を伝える「院宣」。綸旨か院宣のどちらかということになるのです。

幕府倒幕にも使われた「令旨」

綸旨はわりにたくさんある。でも令旨は少ない。皇太子や親王が政治の前面に出てくるという事態がほとんど無かったためです。その中で異彩を放っているのが、大塔宮護良親王の令旨です。

護良親王は言わずと知れた後醍醐天皇の皇子。6歳ごろ、尊雲法親王として天台宗の比叡山系の三門跡(三井寺系の三門跡というのもある)の一つである梶井門跡(三千院)に入室しました。東山岡崎の法勝寺九重塔の周辺に居住していたところから、九重塔を大塔と呼び習わしていたので、大塔の宮、と称しました。

正中2(1325)年には梶井門跡を継承。その後、天台宗トップの天台座主にも昇りましたが、『太平記』によると、武芸を好み、日頃から鍛練を積む極めて異例の座主だったということです。

元弘元(1331)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕の元弘の乱を起こすと、直ちに還俗(僧侶から俗人に戻ること)して戦いに加わりました。天皇は捕縛されて隠岐島に流されましたが、親王は引き続きゲリラ戦を展開します。

反幕勢力を募り、赤松則祐(のち播磨などの有力守護大名に)、村上義光(戦いの中で戦死)らとともに十津川・吉野・高野山などを転々として2年にわたり、粘り強く幕府軍と戦い続けました。楠木正成や赤松円心といった武将たちに指示を与えていたのも親王だったでしょう。

鎌倉幕府は1333年についに倒れるわけですが、このような経緯から、功労の第一は親王だったと評価できます。親王は周囲に倒幕を呼びかけ続けたわけですが、このとき用いられた文書の形式が、親王の意を伝える「大塔宮令旨」ということになります。

「大塔宮護良親王」、どう読みますか?

さて、ここで問題です。まあいろいろなところで出題しているのですけれども、「大塔宮護良親王」、どう読みますか? 年配の方なら、たぶん「だいとうのみや もりながしんのう」と読まれるのではないでしょうか。戦前から戦後にかけて、長いあいだ、そう読まれてきたので、歴史に詳しい方であれはあるほど、そう発音されるのではないか。

高野山や根来寺の伽藍の中心にある多宝塔は、根本大塔といいます。「こんぽんだいとう」です。また、江戸時代以来、朝廷では「良」の字を「なが」と訓じることがあった。だから、香淳皇后(昭和天皇の皇后)の諱は「良子」と書いて「ながこ」さまですね。

ところが大塔宮に「応答宮」という字をあてた資料が見つかったのです。となると、大塔宮は「おおとうのみや」と読んだ方が良いのではないか。「だいとう」ではなく「おおとうのみや」だからこそ、「応答宮」という当て字になる。

もう一つ。皇族の系図には,護良親王の弟であり、後に後村上天皇として即位する義良親王に「ノリヨシ」とヨミがふってあるものがあります。同じ漢字を使っているのに、兄と弟が読みが違うというのは、いかにも不自然です。ということは、「もりなが」ではなく、「もりよし」だろう。

この2つのことを踏まえて、現在の学界では「大塔宮護良親王」を「おおとうのみや もりよししんのう」と発音しています。これは将来にわたって、そう簡単には覆らないんじゃないでしょうか。