私が講談社の月刊PR誌「本」に寄稿している連載「証言 羽生世代」のインタビュー初回(9月号)には、羽生世代のド真ん中を行く棋士に出てもらおうと思っていた。
郷田真隆。
先日の記事でも記したように、羽生善治と同学年で棋士養成機関である奨励会の入会も同期だ。タイトル獲得通算6期の強豪で、将棋が凄まじく強いのはもちろん、郷田には特別な魅力がある。棋譜から「本筋」の香りが濃く漂うのだ。
本筋とは、例えば野球のピッチャーなどに使われる「本格派」という言葉と同義だと思ってもらえればいい。
小細工を弄することなく、真正面から相手にぶつかる。局面の急所に自然に手が伸び、流れるような攻めで相手を押し切ってしまう。郷田の勝局を並べると、力強い筆致で一本の太い線が引かれているように感じられるのだ。
そして郷田はアナログな男である。たとえば将棋界を席巻しているコンピュータの将棋ソフトの導入も、ほかの棋士よりかなり遅かった。自分の頭で考え抜くことにこだわっているからだ。「SFは好きじゃない」と語り、人の温かみや手作り感を好む。職人であり、武士のような雰囲気も持つ。
それだけに竹を割ったような気持ちのよい発言が多い。「良い手は指が覚えている」というのは将棋ファンがよく知る郷田の名言の一つである。「自分にしか指せない将棋を指している自負がある」という言葉を聞いたときは痺れたものだ。羽生世代についてどう自分の言葉で表現してくれるのか、楽しみで仕方がなかった。
郷田が将棋を覚えたのは3歳頃。伝説の棋士である升田幸三実力制第4代名人とジャイアンツの長嶋茂雄が大好きな父親から教わったという。
「あんなに将棋を楽しそうに指す人もなかなかいない」という郷田の父親は、新聞の観戦記をノートに貼って収集するほどの将棋ファン。郷田はその棋譜を熱心に並べた。「『将棋には美しい棋譜があるんだ』。升田先生や内藤先生(國雄九段)の棋譜を見て、父がそう言っていました」。
郷田の美意識は、幼少期の棋譜並べと父親から大きな影響を受けているのだろう。
父親と指すだけでは飽き足らなくなった郷田は小学3年生の時、近所にあった大友昇九段の道場を訪れる。大友は後の郷田の師匠だ。毎日のように通い、めきめきと実力をつけていった。6年生になると、小学生の大会に出場するようになる。そこで「彼ら」と初めての出会いを果たすのだ。
──羽生さんや森内(俊之)さんと初めて会った時のことは覚えていますか?
郷田 デパートの将棋まつりでしたね。僕はアマチュア四段くらいで自分では強いと思っていたけど、地元の道場でしか指していなかった。
でも全国区になるとレベルはすごく高いので、森内さんに負けてしまいました。ほかにも大会はいくつかあって、羽生さんには小田急と東急デパートの将棋まつりのどちらかの大会の本戦で完敗したことははっきりと覚えていますね。
──その頃、郷田さんはプロ棋士になろうと思っていたのですか?
郷田 うーん、どうだったかな。師匠は、「郷田は奨励会を受験する」と周囲に言っていましたね。同じ道場に通っていた仲間には申し訳ないけど、僕は特別扱いされていましたから。最初に会った時からもう、「プロになれ」と言われていたんです。子供心には「何言ってるんだ、このおじさんは」と思っていたけど(笑)。
──最初からモノが違っていたということですね。そしてその年(1982年)に奨励会を受験して、見事に合格します。
郷田 周りの受験者たちがとんでもなく強いんですよ。一次試験は受験者同士で指して、6勝3敗でした。さっきも言ったけど、当時僕はそれほど強くなかったから、なんで6勝できたかはわからない(笑)。羽生さんや森内さんと指したかどうかは覚えていないですね。二次試験は現役の奨励会員と指して、2勝1敗で合格しました。
──現役の奨励会員に勝ち越さなければいけないのは大変ですよね。
郷田 いや、それが違うんです。