皇統護持作戦の中枢を担った源田實大佐と志賀淑雄少佐

【戦後秘史】秘密裏に36年間も遂行されていた皇統護持作戦とは?

海軍の精鋭部隊に下された密命

日本がポツダム宣言受諾を決定した段階から、占領軍によって天皇を処刑される場合に備えて、皇統を護持する作戦が秘密裏に遂行されていた。密命が下されたのは、終戦の直前まで、米航空部隊の迎撃に当たっていた切り札的航空隊だった。

そして、その作戦終了が宣言されたのは、なんと36年後の昭和56(1981)年。巷では、『ルビーの指輪』が大ヒットし、トシちゃん、マッチが大人気。『窓際のトットちゃん』『なんとなくクリスタル』がベストセラーとなり、テレビでは、「オレたちひょうきん族」「なるほど!ザ・ワールド」が始まった年だった。

 

終戦から4日後の夜、秘密作戦は発動した

月齢11の月の光が差し込む薄暗い道場の畳の上に、草色の第三種軍装に身を固めた海軍軍人が23名、威儀を正して座っている。一人一人の傍らには軍刀と、鈍く光る拳銃が置かれている。上座には、第三四三海軍航空隊(三四三空)司令・源田實大佐、その傍らには飛行長・志賀淑雄少佐。残る21名の目は、司令の一挙一動に注がれている。

昭和20(1945)年8月19日、午後8時過ぎ、海軍大村基地の裏手、福重地区の山の中ほどにある健民道場。彼らは、源田司令とともに自決するためにここに集まったのだ。

昭和20年春、松山基地にて。三四三空司令・源田實大佐(左)と、飛行長・志賀淑雄少佐(右)

源田司令が、

「残念ではあるが、ついに刀折れ矢尽きた。私は、護国の大任をはたせなかった責めを負い、自決する。命をともにしてくれることを嬉しく思う」

と、簡潔な自決の辞を述べると、要務士・中島大次郎少尉、渡辺孝士少尉の手で恩賜の酒が盃に注がれ、別杯の儀式が行われた。拳銃で自決するときは、こめかみを撃つと手が滑って仕損じることがあるので、銃身を口にくわえて頭を打ち抜くよう、海軍では教えられている。志賀飛行長が「各自拳銃に弾丸を込め」と命じ、各々が自分の拳銃に弾丸を装填する。そして源田が拳銃を手に取り、部下たちもこれに続こうとしたとき、

「待て!」

と、低いが気迫のこもった声で、志賀が制した。

「司令よりお話がある」

一瞬の沈黙のあと、源田がふたたび口を開いた。

「私はいま、命も名もいらぬ同志が欲しかった。試すような形になった事をお詫びする。われわれは、ある命令により、死以上に勇気のある困難な重大任務に入る。この任務は生やさしいことではない。達成に何年を要するか、配置によっては土地の職業人に成りきり、自活覚悟を求める。作戦は今夜直ちに発動する。ほかの隊員からは明日逃亡の誹りを受けることも覚悟し、もちろん他言無用と心得て、作戦命令の成功まで、肉親友人にも絶対秘密を洩らさぬ誓いを求める」

――これが、戦争終結後、三四三空が任じることになった新たな「秘密作戦」の始まりだった。

三四三空は、軍令部参謀だった源田實大佐の、〈精強な戦闘機隊をもって敵機を片っ端から撃ち墜とし、制空権を奪回して戦勢回復の突破口に〉との構想から、新鋭戦闘機「紫電改」を主力兵器として昭和19(1944)年12月、編成された、日本海軍の最後の切り札的航空隊だった。

本拠地を愛媛県の松山基地(現・松山空港)に置き、司令・源田實大佐、副長・中島正中佐(のち相生高秀少佐)、飛行長には、海軍航空技術廠で、テストパイロットとして紫電改を育て上げた志賀淑雄少佐がそれぞれ着任した。

戦闘機隊の主力は、戦闘第七〇一飛行隊(飛行隊長・鴛淵孝大尉)、戦闘第四〇七飛行隊(飛行隊長・林喜重大尉)、戦闘第三〇一飛行隊(飛行隊長・菅野直大尉)の三個飛行隊で、それに偵察機「彩雲」で編成された偵察第四飛行隊、錬成部隊として戦闘第四〇一飛行隊が加わった。

三四三空で戦没した4人の飛行隊長。左より戦死順に、林喜重大尉(20.4.21)、林啓次郎大尉(20.6.22写真は海兵生徒時代)、鴛淵孝大尉(20.7.24)、菅野直大尉(20.8.1)

3人の飛行隊長は、いずれも源田司令みずから調査、指名したつわもの揃いで、新人搭乗員も多いが、中核になるのは、航空本部の名簿のなかから選ばれ、集められた歴戦のパイロットたちだった。志賀少佐の回想――。

「士気はきわめて旺盛でした。松山に着任したとき、若い三人の隊長――鴛淵25歳、林24歳、菅野23歳――に、紫電改や空戦についての注意事項を教えようとしたら、みんな馬耳東風、全然相手にしてくれない。私は当時まだ30歳、まだまだ飛ぶつもりでいたんですが、これは俺の出番はないな、現場監督に徹しようと。鴛淵は知将、林は仁将、菅野は勇将、その異なった個性が、みごとなチームワークを生んでいました」

三四三空の初陣は、昭和20年3月19日のことであった。

昭和20年4月、沖縄作戦に参加するため、松山基地から鹿屋基地に向け発進する直前の紫電改。手前の胴体2本線の機体は、戦闘三〇一飛行隊長・菅野直大尉の乗機

「古来、これで十分という状態で戦を始めた例はない。目標は敵戦闘機」

源田司令の訓示である。

この日、呉方面に敵機動部隊来襲の報に、満を持して発進した紫電改54機、紫電7機は、圧倒的多数の敵艦上機群と空戦、52機の撃墜戦果を報告した。損害は16機(敵発見を報じたのちに撃墜された偵察機1機をふくむ)、地上大破5機だった。空戦に戦果誤認はつきもので、じっさいには敵味方の損失はほぼ同じであったという戦後の検証もあるけれど、敗色濃厚なこの時期としては、かなりの善戦といえた。

「この日の空戦は、地上からもよく見えました。敵機が来たときには、こちらはすでに発進を終え、ちょうどよい間合いで待ち構えている。司令と並んで、始まりますよ、と見ていると、一撃するごとに敵機が調子よく墜ちてゆく。『これは開戦時の再現ですよ』と司令に言った記憶がありますが、結局、そのあとが続かなかった」(志賀少佐)

三四三空飛行長・志賀淑雄少佐。司令を補佐し、皇統護持作戦に従事する隊員を選ぶための芝居を打った(右写真は撮影/神立尚紀、以下同)

4月に沖縄戦がはじまり、「菊水作戦」と称して大規模な特攻作戦が実施されるようになると、三四三空も沖縄方面の制空戦に駆り出された。並行して、本土上空に来襲する米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29の邀撃、海上に不時着水した敵パイロットを救助するため飛来する飛行艇狩りなど、本来の任務を超えて酷使されるようになる。そして、戦局の変化にともない、三四三空の主力は鹿児島県の鹿屋、国分、長崎県の大村と移動を重ねた。米軍機の空襲は間断なく続き、熾烈な戦いに、隊員たちは次々と斃れていった。

「4月21日に林喜重、6月22日にその後任の林啓次郎、7月24日に鴛淵、8月1日に菅野と、飛行隊長の戦死が続き、6月頃になると飛行機や部品、搭乗員の補充もままならなくなった。燃料も足りない。機銃弾も、戦前にスイス・エリコン社から輸入したもののなかには膅内爆発(銃身内爆発)するおそれのあるものがあり、使用厳禁、となっていましたが、それが大村の第二十一航空廠の倉庫から間違って出てしまった。菅野が戦死したのはそのためでした……」

菅野大尉は8月1日、屋久島北方で、米陸軍の大型爆撃機・コンソリデーテッドB-24の編隊を攻撃中、20ミリ機銃の膅内爆発で主翼に大穴が開き、空戦場から離脱して単機になったところを、ノースアメリカンP-51戦闘機に撃墜されたと推定されている。