(写真:西田香織)

児童虐待が急増する中、山田詠美が「大阪2児放置死事件」に挑んだ理由

自分も当事者になりうるという想像力を

かつては文学界のアウトサイダー、いまは芥川賞選考委員も務めるベテラン作家になった山田詠美は、このインタビューで「想像力」という言葉を何度も使った。

彼女の新作はちょっとした“事件”だった。山田が初めて新聞の連載小説を手がけ、しかも2010年に大阪で実際に起きた児童虐待死事件を題材に、罪を犯した母親を主人公にするという二重の挑戦があったからだ。 

そして、完成した最新作『つみびと』(中央公論新社)は注目に応えた長編になった。キーワードは「らしからぬ」である。誰もが尻込みするような難しいテーマに、ベテラン「らしからぬ」リスクをとって挑んだ理由はなにか。

(取材・文:石戸諭/写真:西田香織)

山田詠美さん

小説とジャーナリズムの違い

「私の娘は、その頃、日本じゅうの人々から鬼と呼ばれていた。鬼母、と」

つみびと』はこの一行から始まる。「娘・蓮音」は幼い子供2人―兄と妹―をマンションの一室に閉じ込め、自身はホスト遊びに興じていた。真夏の部屋で、飢えと渇きに苦しみながら子供たちは亡くなる。

小説は3つの視点から書かれている。虐待死事件を起こした蓮音の母親である琴音の視点、蓮音の視点、そして蓮音の子供である「小さき者たち」の物語だ。琴音は一人称の独白、蓮音は三人称、「小さき者たち」は三人称のですます調でと文体もそれぞれ変えて、彼女たちの生い立ちから描き出す。

蓮音も虐待を受けていた過去があり、一つの事件の背景も念入りに書いている。参考文献に挙がっているのは、いずれも丁寧な取材で評価が高いノンフィクションばかりだ。

 

かつて沢木耕太郎は「ニュージャーナリズムについて」(文春文庫『紙のライオン』所収)という短い評論の中で、小説とジャーナリズムの違いについて、こんなことを書いている。

小説家であれ、ジャーナリストであれシーンを手にいれる方法は3つしかない。体験、取材、想像力である。ジャーナリストはこのうち3番目の想像力にのみ制限をかけられる。想像力をつかってシーンを描くことだけは許されない。

つまり「自分の恣意によってシーンを創作し、あるいは変形してはならないという事実に対する倫理観」が小説とジャーナリストをわける一線である、と。

小説家は現実の事件を題材にし、想像力をつかってシーンを描くことは許される。そうである以上、作品の出来を決めるのは「想像力」になる。中途半端に描けば複雑な現実に屈するが、ノンフィクション以上に豊かにシーンを描くことで、登場人物の内面に迫ることができる。