戦争に押し潰された、講談社「少年社員」たちの立身出世の夢

大衆は神である(63)
魚住 昭 プロフィール

砕け散る夢

危機感を抱いた笛木悌治は『講談社の絵本』の編集主任ポストを返上して、かつて務めた少年指導者に戻った。

笛木は着任と同時に伸ばしていた髪を切り、社に泊まり込み、文字どおり少年と寝食を共にしながら、部内のモヤモヤとした空気の一新をはかった。

 

以下は笛木の『私の見た野間清治 講談社創始者・その人と語録』の一節である。

〈しかしこの時点(昭和十五年ごろ)になると、戦局は日とともに激烈を加え、応召(召集されて軍務につくこと)応徴(動員されて軍需工場などで働くこと)は増加の一途を辿って行った。

一時三百人を越えていた少年部員は、見る見る減少して行った。補充のための新規採用も困難を極め、苦心の末採用しても忽ち応徴応召となり、焼け石に水であった。

でもこれはすべて国家非常の際とて、やむを得ない仕儀であった。

流石に志操堅固な少年達も、日に日に召され行く先輩同僚を見て、平静たり得ることはできなかった。中には心は社に在りながら、一応退社の形式を執って郷里から出発して行く者なども、かなり認められるようになった。

このようにして、終に昭和十六年夏、新潟県出身の上村光雄(かみむら・みつお)を最後として、全員召集されたのであった〉

「中等学校に行かなくともえらくなれる」を合い言葉に、講談社の底辺を力強く支えてきた少年部システムはこうして解体した。それは、清治が少年たちの心に育んだ立身出世の夢が、戦争という巨大な現実に押しつぶされ、砕け散ったことを意味した。

註1:秘蔵資料で、黛は少年社員らのストの時期を昭和12年秋ごろと語っている。だが、『新聞之新聞』の記事、同紙に掲載された清三の手記などの“客観証拠”に照らすと、ストは清治没後の昭和14年に行われたとみられる。ただし、少年部ストが昭和12年と昭和14年の2回にわたり、同じ入営時の休暇を求めて行われた可能性も排除できない。