戦争に押し潰された、講談社「少年社員」たちの立身出世の夢

大衆は神である(63)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

野間清治、亘親子の死後、講談社3代目社長に就いた清治の妻・佐衛。彼女が進めた講談社の株式会社化は、家族も同然だった社員たちの間に、次第に亀裂をもたらすようになっていた。さらには講談社名物の「少年社員」も、戦争へとひた走る世相に翻弄されてゆく……。

第七章 紙の戦争──不協和音⑵

少年社員の「ストライキ」

話は、昭和14年(清治と恒が亡くなった翌年)の講談社に戻る。清三が発信源と見られる怪文書騒動は、同年秋になってもおさまらなかった。事態がこじれたのは、講談社の後継をめぐるゴタゴタに加え、日中戦争で入営を間近に控えた少年部員らの不満が噴出したからである。

同年11月15日付の『新聞之新聞』は、

【講談社少年社員 一斉罷業の暗流 ――入営者の休暇願が導火線――当局調査に乗り出す】

の大見出しを掲げ、「講談社少年社員約三百名」の「一斉ストライキ」へ向けた動きを報じている。

 

それによると、講談社少年社員のうち、この年12月10日から20日までの定期入営者(徴兵検査に合格した20歳男子)は16人。彼らは入営を前にして帰省すべく休暇を願い出たところ、「多忙の折柄ではあり社として拒絶」された。

反発した少年社員らは重役に食ってかかった。高木常務がその旨を左衛社長に報告すると「そんなら辞めてもらったら」ということになったので、辞表を提出した。これが、他の少年社員らの耳に入り「明日は我が身」とばかりに結束して立ち上がった。この間、数度にわたり檄文が飛び交ったため、講談社を所管する大塚警察署の特高係が講談社の人事係長に面接して、事情を聴いた。

記事には、大塚署の江口特高係員の談話も載っている。

江口係員は、『新聞之新聞』の記者に対し、「講談社がゴタゴタしているということは一、二か月前からたしか九月だったか不図(ふと)したことからわかったが、今度の問題はこれから調べようと思っている。従ってまだ御話する迄に調査はついていない云々」と述べている折も折、上司から「講談社の方へ行ってみてくれないか」と言われ、席を立ち上がったという。

シンプルな要求なのに…

清治が手塩にかけた少年たちの“乱”の衝撃は相当強かったらしく、秘蔵資料のあちこちで言及されている。だが、ほとんど断片的な回想で終わっているため、事件の詳細がつかみにくい。

唯一の、まとまった証言を残したのは当時、少年たちを指導する立場にあった黛幸助(まゆずみ・こうすけ)である。

その黛証言(註1)を軸に事件を再構成してみると、争議の中心になったのは、中学卒で講談社に入った少年社員ら十数人で、本社屋上に集まって社側と対峙した。