「表現の不自由展」中止と「ヤジ排除」不寛容な日本社会の深刻な状況

私たちは「多元性」を認められるのか
阪口 正二郎 プロフィール

しかしながら、市民からの展示への抗議には、違法なものもあれば合法なものもある。まずその点が区別されるべきである。

抗議の中には、テロ予告や脅迫などもあったとされる。実際に、「撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」というファックスも送り付けられている。テロ行為の予告や、脅迫に該当するような抗議は、たとえ表現行為であっても、憲法が保障する表現の自由の保障を受けるものではない。こうした形の抗議はそもそも合法なものではない。警察が捜査しファックスの送付者を威力業務妨害の容疑で逮捕したことは当たり前である。

こうした抗議を受けた場合に、展示物の主催者がまず考えるべきことは、警察への警備の要請である。警察の警備によっても来場者の安全が確保できないと判断される場合に、はじめて展示の中止は正当化される。今回の展示の主催者が警察の警備を要請したのかどうかは分からない。

なぜ、そこまですべきなのか。それは、そもそも表現行為が人を刺激するものであり、それが政治的表現行為であればなおさらそうであることによる。

多元的な価値や考え方の存在を想定する社会で、政治的な表現行為がなされる場合、それに敵対する人々がいないと想定することはおよそ非現実的である。敵対する人々は、そうした表現行為をさせないための手段として、テロ行為を予告するなどの脅迫をなすこともありうる。

しかしこれを認めてしまえば、特定の言論に反対する者に対して、相手の言論を物理的に封殺する「拒否権」まで認めてしまうことになる。人は、相手の言論に反対することはできても、相手の言論の物理的に排除する「拒否権」まで持つものではない。

 

「表現するな」という抗議の卑怯さ

威力業務妨害や脅迫などに該当しない限り、展示に対する抗議は法的には許されている。

しかし、「表現の不自由展」での「抗議」の意味をもっとよく考えておく必要がある。この「抗議」は大ごとである。善意に評価すると、今回の場合、自分がなした「抗議」の意味をよく理解しないまま、(「展示を中止せよ」とクレームの電話を入れるなど)「抗議」をした人がいるかもしれない。

しかし、ここでの「抗議」の意味は、脅迫や威力業務妨害といった犯罪に該当しない場合でも、本質的には展示すること自体への抗議であり、言い換えれば、自分が望まない表現行為をなそうとする相手に対して、そのような表現をするなという内容のものである。

自分自身は、憲法が保障する表現の自由を行使しながらも、相手には同じ表現の自由の行使を認めない、抗議をなした人々の行為はそのように理解されても文句は言えないはずである。そんな一方的で、えらそうで、卑怯なことがはたして認められるだろうか。