「表現の不自由展」中止と「ヤジ排除」不寛容な日本社会の深刻な状況

私たちは「多元性」を認められるのか
阪口 正二郎 プロフィール

自分は理性的だと考える人ほど、ヤジを嫌うだろう。何かモノを言うにしても、モノには言い方がある。相手を理性的に説得しようとすればするほど、そうした人はヤジという方法を避けるだろう。

ヤジという形をとらずに、同じことを穏やかな表現を用いて主張することは可能であり、その方が相手を不要に刺激せず、理性的な議論が可能になる。政治の場とは公共の利害に関わる事項を扱う場であり、理性的な議論が重んじられるべきであるとの考えもこれを支持する。

参院選では、安倍首相の演説へ頻繁にヤジが飛んだ〔PHOTO〕Gettyimages

しかし、そもそも民主主義の下での公共討論は、ヤジを排除するものだろうか。またヤジを排除した公共討論にどれだけの意味があるだろうか。モノには言い方があることは事実である。しかし、だからこそ場合によってはヤジを含めた荒っぽい、粗野なモノの言い方が認められるべき場合があるのではないか。

たとえば、相手の行為に対して怒っている場合、穏やかな抗議では、相手に対して自分がどの程度怒っているのかは伝わらない。その場合には、怒鳴るなどの方法を用いることは自然である。個人同士の私的なやり取りにおいてもそうしたことが認められるのであれば、公共的な利害が問題になる政治の場ではなおさらのことである。

ヤジなどの荒っぽい、その意味で過激な表現方法を認めなければ、反対する市民の怒りの度合いは、政治家にも私たちにも伝わらない。政治的な表現行為に過度に行儀の良さを求めるのは民主主義にとって自殺行為である。

政治家の街頭演説も、それは政治家が一方的に演説し、市民はただ行儀よくそれに静かに耳を傾ける場だと位置づけられるべきではない。そもそも、民主主義の下で政治家は批判されることが当たり前であり、市民が政治家と直接コミュニケーションできる機会は少なく、街頭演説は貴重な機会である。

そうした場における市民を「行儀のよい」「聞き手」として位置づけるべきではない。市民にもまた、貴重な直接のコミュニケーションの機会として「話し手」になる機会が保障されるべきであり、よほどのことがない限り、政治批判としてヤジを含めたある程度荒っぽい表現方法が認められるべきである。

 

「表現」は必ず誰かを刺激する

では、一般的にヤジは許されるとして、公共討論において市民にはどの程度の行儀の良さが求められると考えられるべきだろうか。この問題を、「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」における展示が「排除」された事例を素材に考えることができる。

伝えられるところによれば、主催者が展示の中止を余儀なくされた直接の理由は、テロ予告や脅迫の電話やメールなどがあり、これ以上抗議がエスカレートすると来場者の安全の確保が困難になるというものであった。

展示物の中に慰安婦を想起させる少女像があり、そもそもの慰安婦問題をめぐる政治的対立、さらには最近の日韓関係のありようを考えれば、展示に対して多くの抗議が寄せられたことは容易に理解できる。