暑い夏が到来した。昼間は暑い日差しに苦しめられ、夜も寝苦しい日々が続いている。しかし、暑さという物理的な苦しさだけではない、もう一つの苦しさが現在の日本社会を覆っているのではないか。それは「不寛容」という息苦しさである。筆者にそのような懸念を抱かせる二つの事例がある。いずれも「表現行為の排除」に関わる。
一つは、この夏の参議院議員選挙において、札幌で自民党候補者を応援すべく安倍晋三首相が街頭演説を行った際に、「安倍辞めろ」、「増税反対」などと叫んだ市民が北海道警警備部により「排除」された事例である。
もう一つは、国際的な芸術祭である「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」展において、展示物である従軍慰安婦像(「平和の少女像」)が、「日本国民の心を踏みにじる」ものであり、展示を中止すべきであるとの名古屋市長の抗議や、テロ予告や脅迫を含む市民の抗議を受けて、主催者が展覧会自体の中止に追い込まれた事例である。
このことの意味を、表現の自由や民主主義の観点から考えてみたい。
最初に、二つの事例は、表現行為が「排除」されたという点では共通でも、排除の主体や排除の意味が少しばかり異なっていると考えられる。
前者の事例の方が「排除」の主体や意味は分かりやすい。なぜわかりやすいのか。
憲法は表現の自由を保障している。政治家が街頭に立って演説をするのも表現の自由の行使だが、その演説に対してヤジで応答するのもまた市民の側に保障された表現の自由の行使そのものであり、これに対して公権力である警察がそれを正当な理由なく禁止するのは排除そのものであるからだ。公権力による「表現行為の規制」を禁じることが、憲法が表現の自由を保障している趣旨であり、その観点からすれば、「ヤジ排除」の事例の意味は分かりやすい。
これに対して、後者の事例の場合、「排除」の主体や意味はもう少し複雑である。まず「排除」の意味であるが、ここでは展示が中止に追い込まれたことを意味する。しかし、この場合、芸術家が自分の作品を自分が所有する場、あるいは、自分の身銭を切って借りたギャラリーで展示しようとする場合に、それを妨害されたわけではない。自分で身銭を切って行った展示が妨害されれば、「表現の自由侵害」ということを主張しやすい。