多発性のがんとの闘いを強いられる

もう一人、私の叔母の配偶者である叔父のこと。その日彼は、昭和町、つまり爆心地から500メートル、原爆で焼け落ちた浦上天主堂にも近い場所にいました。母と自分と弟の3人で。

晴れた11時のこと、家には縁側から斜めに陽がさしていたそうです。瞬間、気を失って倒れたといいます。気がついたら、陽が差していたところは、真っ黒に焼け、家は屋根が飛び、大方壊れていました。母と弟を探し、命からがら外へ出ます。

そこは、地獄でした。近くを流れる小川に人があふれ、生きたまま皮をはがれたような血の塊になっている人間らしきもの、骨が出ている人、頭が割れている人、真っ黒に焦げている人。折り重なるすでに息絶えた人々。空は昼間のはずなのに真っ暗で、黒いなヒョウのような雨が降っていたそうです。水を、と足をつかまれたり、すがりつかれたりしながら、恐怖でたまらなくなり、とにかく山の方へ逃げました。うめき声と悲鳴と泣き声の中で、昼なのか夜なのかわからない時間を過ごし、飲んではいけないとも知らず、黒い水もみんな飲んでいたそうです。

平和式典にて展示された当時の写真。このときの記憶を、山脇さんは直に聞いた Photo by Getty Images

3人は生き延びます。しかし、60歳を前に、叔父は肺がんを宣告されました。翌年、いっしょに逃げた弟も肺がんに。煙草も吸わないし……なぜ?と、急にあの日のことを思い出します。一緒に逃げた母親も若くして肺がんで亡くしていました

しかもそれはただの肺がんでは終わりませんでした。多発性がんの恐怖がはじまったのです。まず肺にあらわれたがんは切除したが、次に肝臓がんに。ただし、この肝臓がんは転移ではなかったのです。さらに再び肺に。こちらも転移ではない。宿主が複数の多発性のがん。

爆心地からのサバイバー被爆者であること、その人たちに多く見られる多発性のがんであることから、インターフェロンや新薬、さまざまな治療が試されました。激しい副作用とも戦い、新薬の治験も受けます。

原爆症に認定され、国から特別手当も支給されるようになりました。特別手当は、命と引きかえにもらうものです。

毎年、手術し、毎年現れる新しいがん。家族は落胆するばかりでした。しかし、本人は宣告されるたびに、強くなるようにさえ見えました。叔父の中に生まれた、伝えたいという気持ちに、怒りも加わって、どんどん強くなっているように思いました。
そして、新聞やテレビからの取材も受けるように。取材は貴重な原爆後障害の記録に捧げられました。

子供がいなかった叔父に、わが子のようにかわいがってもらって私は、ずっと闘病を見守りながら、できるだけ長崎へ帰り、叔父からたくさんの話を聞きました。ビデオもまわしました。

あれが、今になって、こう出てくるとはね……。恐ろしかね
生来は口数の少ない叔父は目にいっぱい涙をためて言いました。

同じ時期に発病した叔父の弟は、闘病1年足らずで先に逝きました。

最後に見舞ったとき、全身をがんが浸食し、ガリガリに痩せて、どう横になっても痛くてたまらない姿で、来てくれてありがとうと握った手が、いまも忘れられません。
70歳での訃報を旅先の富良野のホテルで聞き、私は泣き崩れました。