翌日から看護助手に
黒焦げの遺体に触ってはいけなかったのか?

私の本好きは、叔母からの贈り物です。子供のころから本ばかり読んでいた叔母は、あの日、なにが起きたかもわからないまま、恐怖を抱えて真っ暗な一日を自宅で過ごしました。翌日、私が通っていた小学校で、看護補助に招集されました。

叔母が目にしたのは、片手がもぎとられたようにとれた人、焼けて、顔もわからないくらいにただれてしまっている人、目や鼻から血が止まらない人。水をと言われても水がなくて、薄黒い水を飲む人。高熱でうなされて意識が遠のいていく人。
それでも、そんな人々に包帯を巻いたり、言葉をかけたりしたそうです。来る日も来る日も。重度の被爆をした人々に素手で接する日々。

毎年、爆心地付近の浦上川など多くの場所で「万灯流し」が行われている Photo by Getty Images

東京で結婚した叔母は、30代後半で子宮がんになります。いったんは治癒したものの、その後、もともと弱かった心臓がさらに悪くなり、腎臓、再び子宮。入退院を繰り返しました。晩年はいつもお腹に水が溜まっていました。家族で、ふるさと長崎へ戻り、私に被爆から看護活動、そして病気になるまでのことをいろいろ話してくれました。

40代、50代とずっと患い続けた叔母は、「みんなによくしてもらうのは、ありがたいけど、つらい。他人にしてあげられる人は幸せよー。私はなんもできん。みんなにいっぱいしてあげたい」と口癖のように言っていました。

63歳で、静かにこの世を去りました。