被爆者は語らない

1945年8月9日11時2分。当時長崎市の人口は25万人ほど(九州でも3番目、全国でも11位の今以上に大きな街だった)。このうち、15万人が1発の原子爆弾で死傷しました。うち、亡くなった方は7万4千人と言われています。この死者の数がでてきたのは、その年の12月。どれだけ混乱し、壊滅的な状態だったかわかります。

この爆弾は当初小倉を狙ったものでしたが、小倉上空が天候不良だったため、第二候補の長崎に投下されました。長崎には三菱兵器工場、三菱製鋼所、そして戦艦霧島や武蔵で知られる三菱長崎造船所もありました。

爆心地は、いまの松山町のあたりで、当時の街の中心から2、3キロ離れたところでした。投下されたのは広島とは違うプルトニウム原爆で、威力はウランによる広島原爆の1.5倍だったといいます。

「その時」撮影された写真 Photo by Getty Images

7万人以上が殺された日に、私の家族は、大きなけがをすることもなく、奇跡的に生きながらえました。しかし、あの日、一つの街がごそっと破壊された日、どんな目にあったのか?何を見たのか?知らないではいられなくなりました。

定年したら、妻とゆっくり旅をしようと言っていた叔父を後年、白血病にしたのかもしれない、それは何なのか?

概して、市井の被爆者は声高に語りません。語り部になっておられる方や、世界に向けて軍縮や非核を訴える活動をしている方はほんの一部。言いたいことがないのではなく、酷すぎて、むごすぎて、悲惨すぎると、人は無口になるのだと思います。

聞かれれば、『ひどかったけん、もうなんば話してよかとか、わからん(ひどかったから、なにを話したらいいかわからん)』と言う人が多いのです。それでも、家族になら、話してくれるはず。

私が聞いた、今は亡き、叔父たちと叔母、3人の話を書いておきたいと思います。