毎月第1&第3木曜日に公開している連載「ごきげんは七難かくす~50歳からの養生日記」。料理家の山脇りこさんが食をはじめとする健康についての知己を伝えてくれています。8月15日の今日は木曜日ですが、連載とは別に、本日どうしても伝えなくてはならないことを綴ってもらいました。

キリスト教の深く悲しい歴史もある長崎の教会が、キリスト教徒の多いアメリカに破壊されたことには、世界からも厳しい声が 写真提供/山脇りこ

長崎の旅館に生まれ育って

子供の頃、夏はとにかくうちの家は忙しい、と思っていました。生家は旅館で、のちにホテルになってからも、8月は繁忙期。お盆には大きな独特の船をひき爆竹を盛大にならして御霊を送る精霊流しもあるし、なにより、8月9日の原爆の日があるから。長崎県庁にほど近い旅館の正面入口には、8月8日、原水爆禁止日本協議会ご一行様、といった大きなご案内札が立ちました。

長崎の小学校は原爆の日は登校日。私が通っていた、新興善小学校は、長崎県庁と市役所の間にありました。長崎でも1、2の古い小学校で、爆心地からは3キロほどの距離。当時は臨時の病院になっていたようで、ここで懸命な治療が行われたと、登校日は決まってその話を聞きました。ほかにも、被爆者の方のお話をお聞きしたり、爆心地にある城山小学校を訪問したり、原爆のことを考え、平和教育を受ける日でした。

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典は毎年8月9日平和公園などで開催されている Photo by Getty Images

でも、私にとってはそれだけの日でした。うちが忙しくていやだなー、登校日、いやだなーとまで思っていました。

それが一変したのは、私が22歳の時です。

白血病と診断され、原研内科へ
原研って?

58歳の叔父が、白血病と診断されたのです。そして、入院するのは長崎大学の原研内科(当時、現血液内科)だと聞かされました。

原研内科とは、原爆被爆者に発生する後障害(慢性期の障害)の診断、治療、研究を主たる目的として、1965年に当時の長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設の治療部門として創設された内科です。もちろん、その時の私はそんなことは知りませんでした。

しかし、原研と聞いて、それって原爆が原因だということなの?と気づく程度には、鈍くありませんでした。

もちろん、自分のうちが、爆心地から2.5キロほどのところにあり、祖母も親とその兄弟姉妹が全員被爆していて、働いている人の多くも、被爆したことは知っていました。それでも、特に原爆のさまざまな活動にかかわる人もいなかったし、家族であの日のことが話題になることもない家でした。

被爆者だったから差別を受けたとか、結婚も難しかったとか、そういう話もうちでは聞いたことがありませんでした。

登校日が面倒とおもっていたような私には、青天の霹靂。ひたすらに闘病する姿を見て、お見舞いに原研内科に通ううちに、じわじわと、私の中にくり返しおとずれる静かな衝撃。なんで?そういうことがあるの?

そこから、永井隆博士や林京子さんの本を読み、原爆資料館を訪ね(行ったことがなかった!)、さまざまな原爆後障害医療研究の論文を、難しくてもむさぼり読みました。自分の無知に茫然としながら。