1945年8月15日、台湾の基地から特攻出撃直前だった大舘和男さん(右から2人め)、太平洋上で潜水艦から特攻出撃の準備中だっ淺村敦さん(左から2人め)、その朝、来襲する敵機を迎え撃っていた日高盛康さん(左端)と吉田勝義さん(右端)

特攻発進寸前の搭乗員もいた! 最前線にいた戦士たちそれぞれの終戦

「戦闘続行!」と叫びながら、内心は…

あの日から74回目の8月15日、年号は昭和から平成を経て令和となった。日本が大敗を喫した戦争を記憶している人は最も若くとも70代後半、実戦を知る人は多くが鬼籍に入ってしまった。

己の身を盾にして戦っていた戦士たちは、「玉音放送」を聞いたあの日に何を思ったのか。国会議員が公の場で「戦争しないと、どうしようもなくないですか」と発言するようになってしまった今だからこそ、耳を傾けるべきではないだろうか。

 

「なんでこんな戦争を始めたんだ」

「戦争が終わったときは、それまで、あまりにこちらの戦いぶりのお粗末なところを見てきたから、負けた悔しさよりも、なんでこんな戦争を始めたんだと、そういう気持ちの方が強かったですね。子供だって、ケンカをやるときは止めどきを考えるでしょう。どうやって終結に持っていくか、それが全くなかったですからね」

と、本島自柳さん(旧姓名・大淵珪三)は言う。本島さんは、空母乗組の艦上爆撃機搭乗員として真珠湾攻撃、インド洋作戦などに参加。ミッドウェー海戦で、母艦が撃沈された際に爆風で吹き飛ばされたが、九死に一生を得、その後もソロモン諸島、硫黄島、さらにはフィリピンで激戦をくぐり抜けた。終戦時28歳、海軍少佐。戦後は医師となり、群馬県で総合病院を経営する。

横須賀海軍航空隊分隊長・本島自柳(旧姓名・大淵珪三)少佐(右写真撮影/神立尚紀、以下同)

——今年も8月15日が巡ってきた。いまから74年前、昭和20(1945)年のこの日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

だがこの日、ただちに戦闘状態が終わったわけではないことは、1年前の拙稿『知られざる『終戦後』の空戦~8月15日に戦争は終わっていなかった』(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57003)で述べた通りである。

たとえば、8月15日、玉音放送を受けて、海軍軍令部総長・豊田副武大将が、麾下の海軍総隊司令長官・小澤治三郎中将に下した奉勅命令(天皇の意志を奉じて伝える最重要命令)「大海令第四十七號」には、〈何分ノ令アル迄對米英支蘇積極進攻作戰ハ之ヲ見合ハスベシ〉とあって、その意味するところは、アメリカ、イギリス、中華民国、ソ連に対する積極的進攻を見合わせろ、というのみである。

大本営より陸海軍部隊に条件付きの停戦命令が出たのは8月16日午後のことで、「大海令第四十八號」には、

〈海陸軍全部隊ヲシテ即時戰闘行動ヲ停止セシムベシ〉

とあるものの、

〈停戦交渉成立ニ至ル間 敵ノ來攻ニ當リテハ止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戰闘行動ハ之ヲ妨ゲズ〉

と、停戦交渉が成立するまでの間、自衛のための戦闘は妨げない旨が明記されている。8月19日、「大海令第五十號」で、支那方面艦隊をのぞく全ての海軍部隊に戦闘行動停止が命じられるが、その刻限は8月22日午前0時と定められていた。

そんな状況を頭の隅に置きつつ、ここでは、私がこれまでインタビューを重ねた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返ってみたい。なお、証言者の多くは、残念ながらここ数年で鬼籍に入っている。

「ひと言で言って、アンビリーバブルですよ。わずか3週間前に見送りを受けて大湊を出港してきたばかりなんですから。8月15日午後、浮上したさいに電信でもたらされた陛下の詔勅を読んで、艦長が、『これはデマだ、こんな馬鹿なことがあるものか!』と叫びました」

と言うのは、「潜水空母」とも称される超大型潜水艦・伊四百一潜に搭載された特殊攻撃機「晴嵐」の隊長だった淺村敦さん(当時23歳、大尉)である。淺村さんは、西太平洋・ウルシー環礁の米艦隊泊地への特攻出撃に向かう途中で終戦を迎えた。

「伊四百一潜はあくまで任務を完遂すべく、ウルシーに向かいました。『降伏』という発想自体を持たなかった私たちにとって、ここで引き返す選択肢はなかったんです」

翌8月16日夜、作戦中止と帰投命令が相次いで届き、伊四百一潜は、ここでようやく日本に向けて舵を切る。ウルシー攻撃に向け、淺村さんらが搭乗する「晴嵐」3機が発進する予定時刻の、わずか数時間前のことだった。

伊四百一潜飛行長・淺村敦大尉

現代の目で見れば不思議なことだが、当時の軍人、特に現場の若手士官たちは、「勝てない」とは感じていても、それが、「負ける」とか「敵に降伏する」という思考にただちに結びつかない。硫黄島、フィリピン、沖縄、本土上空の邀撃(ようげき)戦で戦った零戦隊指揮官・岩下邦雄さん(当時24歳、大尉。戦後は魚粉会社経営)は、

「それまでいろんな苦しい目に遭って、この戦争は勝てないとは思っていましたが、だからと言って負けるとは思わなかった。戦争に負けるという教育を、われわれは受けてこなかったんですから。ただ降伏が陛下のご聖断によるものということで、それならやむを得ないと。わりあいに冷静に受け止めることができました」

と語っている。

横須賀海軍航空隊分隊長・岩下邦雄大尉

それを「洗脳」の一言で片づけるのはたやすいし、明治以降70数年にわたって培った、近代日本の教育の結果であることは否定できない。しかし、戦後70数年、現代の教育や、われわれが普遍的だと思っている価値観が、後世どのように評価されるか誰にもわからないのと同じで、それが「時代」というものなのだろう。