敗戦直後、日本人自ら戦争を検証した、知られざるプロジェクトとは?

『戦争調査会』を特別公開!
井上 寿一 プロフィール

政府の強固な意志は本当だった。前年10月30日の閣議決定は「政治、軍事、経済、思想、文化等凡(あら)ゆる部門に亘(わた)り徹底的調査に着手せむとす」と宣言している。

ここに戦争調査会の体制は整った。本格的な議論は3月27日の第1回総会から始まることになる。

「さしたる期待すら持ち得ない」

ところが新聞の論調は戦争調査会の役割に消極的だった。たとえば『読売報知新聞』の社説(1945年11月29日)は、戦争調査会が「ほんの申訳的に」、日本の敗戦の責任を問おうとしていることを疑問視して、「何故に侵略戦争を開始したかという戦争挑発の責任」を問題にすべきだと述べている。

あるいは『朝日新聞』の社説(1945年12月2日)が断言している。「政府の企図する戦争調査に対して、われらは固(もと)よりさしたる期待すら持ち得ない」。この社説は「政府の人選ぶり」が気に食わなかった。この人選では戦争調査会の公正性・中立性が損なわれると考えたからである。

新聞とは異なる立場から戦争調査会を批判したのが戦前の言論人で戦犯容疑者になる徳富蘇峰(とくとみそほう)である。徳富はこの年の11月26日に記している。「元来米国その他連合国側が、戦争犯罪人を云々するは、本来敵国側であったから、不思議はない」。しかしながら「我が国民までが、戦争犯罪人を云々し、更に当局者が、その吟味者となるに至っては、極めて意外千万の事と、いわねばならぬ」。徳富にとって、負けた側が勝った側の裁きを受けるのは仕方がないとしても、負けた側が負けた側を裁くことは論外だった。

徳富蘇峰(国立国会図書館蔵)

戦争調査会はこのような国内社会の無理解、誤解、消極的な反応、批判のなかで、出発する。

第1回総会の開催

戦争調査会は総会、5つの部会(必要に応じて連合部会を開催)、部会長会議(各部会の連絡調整)と参与会議の4つのカテゴリーの会議体によって構成される。

総会は最高意思決定機関の位置づけで、目標・方針・方法などが審議の対象だった。第1回総会は1946年3月27日に総理大臣官舎において開催される。

第1回総会が開催された当時、国内状況は大きく変動していた。同月6日、政府が主権在民・象徴天皇・戦争放棄を定めた憲法改正草案要綱を発表すると、マッカーサーは承認する旨の声明を出す。マッカーサーが憲法で天皇制の存続を認める以上、5月に開廷予定の東京裁判で天皇が訴追される可能性はなくなった。総会における議論も天皇制の存在は暗黙の前提だった。

第1回総会における発言者は発言順に、青木、幣原、渡辺銕蔵(わたなべてつぞう)(元東京帝国大学教授)第三部会委員、八木第五部会長、松村義一(まつむらぎいち)(貴族院議員)第一部会委員、馬場恒吾第四部会長、富塚清(とみつかきよし)(東京帝国大学教授、機械工学専攻)第五部会委員の以上、7名である。

関連記事