2019.08.15

敗戦直後、日本人自ら戦争を検証した、知られざるプロジェクトとは?

『戦争調査会』を特別公開!
井上 寿一 プロフィール

年末までに逮捕者は300人に達した。陸海軍はもとより政界、財界、右翼団体へと拡大した逮捕者のなかには、皇族の梨本宮守正王(なしもとのみやもりまさおう)も入っていた。彼らは巣鴨プリズンに収容される。

翌年1月19日、マッカーサーは極東国際軍事裁判所の設置を命令する。「平和に対する罪または平和に対する罪をふくむ犯罪」が裁かれることになった。連合国各国の検察陣が来日する。オーストラリアは天皇起訴の方針だった。ソ連も同様の方針であることが予想された。日本の戦争責任をめぐる連合国側の態度はきびしかった。

他方で1月4日に占領当局は公職追放令を発する。追放の範囲は広く、幣原内閣の五閣僚も該当すると報じられた。幣原内閣は1月13日に内閣改造を余儀なくされる。

主な政党政治家が追放されるなかで、「粛軍演説」(1936年)と「反軍演説」(1940年)で著名な斎藤隆夫は大丈夫だった。戦時中、沈黙を強いられたリベラルな言論人の馬場恒吾も同様である。将校クラスの軍人の大部分が追放されたのに対して、何人かは免れた。飯村もそのひとりである。山室と八木はそれぞれの組織(財閥系企業と技術院)における戦時体制に対する消極的抵抗者だった。戦時体制に関連してできるかぎり「手が汚れていない」人物が部会長の地位に就いた。

馬場恒吾(国立国会図書館蔵)

副総裁のポストには6月14日に芦田均(あしだひとし)(衆議院議員、日本自由党)が就任する。幣原、吉田、芦田の外交官出身の3名が戦争調査会に関与することになった。戦争調査会は1920年代の国際協調の時代において体制の側にあった政治勢力の復活の現われだった。

全国津々浦々の調査

事務局内の5つの調査室には常勤職員の調査官と嘱託が配置されて、内閣事務官とともに調査に当たることになった。

調査の出張先は北海道から九州まで全国津々浦々である。たとえばある嘱託は2月8日から12日間、北海道と宮城県へ出張している。主な用務は北海道帝国大学と東北帝国大学の教授の意見聴取と資料収集だった。

あるいは別の内閣事務官は5月9日から11日間、福岡と熊本に出張し、両県に所在する沖縄県事務所を訪れている。沖縄県からの引揚者に対して、戦時中の沖縄の情況を聴取することが目的だった。

事務局の出張関係書類のファイルによると、用務は3つに大別される。

第一は委員の就任内諾交渉である。一例を挙げる。ある調査官が2月1日から4日間、名古屋に出張している。柴田雄次(しばたゆうじ)名古屋帝国大学教授(化学専攻)に委員就任の内諾を得るのが目的だった。柴田は3月16日付で第五部会(科学技術)の委員に就任する。就任内諾交渉に失敗した例もある。それがほかならない若槻の場合だった。2月15日に青木長官が自ら若槻を訪問する。幣原は青木に依頼していた。「君、若槻さんを訪ねて諾否何(いず)れかを質(ただ)し、若(も)し不承諾のようなら君から改めて御依頼をして来て呉(く)れ」。しかし青木の説得は不首尾に終わった。

第二は広範囲の資料収集である。たとえばある嘱託は7月23日から6日間、愛知県内の高等女学校、中学校、高等師範学校、国民学校を訪れている。歴史教育資料と教科書の収集が目的だった。新潟県に赴いたある内閣事務官は、国内油田開発に関する資料収集をおこなった。戦争末期、南方からの航空機用燃料の輸送が困難に陥った。国内油田の開発が急務となる。それにもかかわらず生産実績は進捗しなかった。原因を探究する資料が必要だった。

第三は本格的な調査報告の作成である。たとえば2月に長野県に出張したある調査官は、「飯田町を中心とする下伊那郡に於ける中小工業に関し戦時中の運営状況並(ならび)に之に対する統制実施状況調査」をおこなった。調査官は調査の結果を翌3月の報告書にまとめた。この調査報告は戦時下の中小工業の実情に関する第一級の分析を展開している。

事務局の書類ファイルで確認できるだけでものべ40人が出張している。戦争調査会はこのように大がかりな調査が下支えする各部会によって構成されていた。戦争調査会が大規模な組織になったのは、さきの青木の回想を再引用すれば、政府側の考えが「相当強固なもの」だったからである。

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