2019.08.15

敗戦直後、日本人自ら戦争を検証した、知られざるプロジェクトとは?

『戦争調査会』を特別公開!
井上 寿一 プロフィール

総裁選びは思いのほか難航する。意中の人は牧野伸顕(まきののぶあき)だった。戦前、元老につぐ重要な内大臣の地位にあった親英米派の牧野は、幣原が外相を務めた時の政党内閣を側面から支援していたからである。しかし牧野は断った。そこで幣原は、今度は若槻に就任を要請する。第2次若槻内閣の外相幣原にとって、当然の選択だった。

要請を受けたものの、若槻は、伊豆・伊東の別邸で、満州事変の不拡大に失敗した過去に言及しながら謝絶する。若槻は理由を言う。「これを顧みてみると、私は腹を切ることはしないでも、せめて坊主になって世の中を隠退して、一切の政治問題には関係をしないという態度を執らなければならぬと思っている」。若槻の謝絶は戦争責任の引き受け方の一つだった。

若槻礼次郎(国立国会図書館蔵)

若槻に断られたのは、1946年2月のことである。これ以上総裁のポストを空けておくことはできなかった。やむをえず幣原自らが総裁の座に就くことになった。

長官に就いたエリート官僚

総裁のポストと同等以上に重要だったのは、事務方のトップに当たる長官のポストである。次田大三郎内閣書記官長は庶民金庫(1938年設立の政府系金融機関、のちの国民金融公庫)理事長の青木得三(あおきとくぞう)に依頼する。1885(明治18)年3月26日生まれの青木は当時61歳だった。1909(明治42)年に東京帝国大学を卒業して大蔵省に入省した青木は、エリートコースを歩む。課長クラスの時から論壇誌の『改造』に寄稿して、注目されていた。青木自身が「大蔵官僚というものは政党色がないのです。私が特別のことです」とのちに述べているように、青木は若槻礼次郎や浜口雄幸(はまぐちおさち)のような大蔵省出身の民政党の政治家のあとを追った。青木は岡田啓介(おかだけいすけ)内閣(1934~36年)の時の選挙粛正運動に関わっている。「選挙を粛正して政党を浄化」することで、「軍閥政治」を避ける意図からだった。

大学の同級生だったふたりは、次田が内務省、青木が大蔵省のちがいはあっても、旧民政党系の国家官僚の出身として共通する。次田は青木に頼み込む。「庶民金庫の理事長なんというのは誰にでも勤まるけれども、この戦争調査会の事務局長官はお前でなければ勤まらない」。次田は大蔵省の天下りで手にした庶民金庫の理事長のポストを手放すことを求めている。普通であれば兼職で足りそうなものである。しかし国家プロジェクトの事務方トップの役割は兼職では無理だった。青木はのちに述懐している。「最初政府側の考えは相当強固なものでした」。青木は戦争調査会で辣腕(らつわん)を振るう。総裁候補者のところへ足を運び、説得する。諸会議へもっとも熱心に出席する。会議の議事進行を滞りなくおこなう。調査項目を指示する。とびきり優秀な国家官僚の出身者ならではの行政手腕だった。

戦犯逮捕と公職追放のなかで――委員の人選

長官と総裁は決まった。つぎは委員の人選である。委員は学識経験者から20名が任命される。このほかに臨時委員18名、専門委員3名、参与8名が任命されている。事務局内には2つの課(庶務課と資料課)、5つの部会に対応して、5つの調査室が設置される。5つの部会とは、政治外交・軍事・財政経済・思想文化・科学技術である。

各部会の部会長名を挙げる。斎藤隆夫(さいとうたかお)(衆議院議員、日本進歩党)・飯村穣(いいむらじょう)(元憲兵司令官、陸軍中将)・山室宗文(やまむろむねふみ)(元三菱信託会長)・馬場恒吾(ばばつねご)(読売新聞社社長、貴族院議員)・八木秀次(やぎひでつぐ)(大阪帝国大学総長、電気工学、元技術院総裁)の以上5名である。

斎藤隆夫(国立国会図書館蔵)

なぜこの5人なのか。戦犯逮捕令と公職追放令を想起する必要がある。敗戦直後の9月11日、占領軍は東条英機(とうじょうひでき)ら39人に対する戦犯逮捕令を発した。東条は自殺を図りながら、未遂に終わる。東条内閣の小泉親彦(こいずみちかひこ)厚相と橋田邦彦(はじだくにひこ)文相は服毒自殺した。11月に逮捕令が出た本庄繁(ほんじょうしげる)元関東軍司令官も自決している。12月には近衛文麿(このえふみまろ)も服毒自殺する。

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