グアムの捕虜収容所で玉音放送を聞く日本兵(Photo by Getty Images)

敗戦直後、日本人自ら戦争を検証した、知られざるプロジェクトとは?

『戦争調査会』を特別公開!
敗戦後、幣原喜重郎内閣が立ち上げた国家プロジェクト=戦争調査会。日本人自らの手で開戦、敗戦の原因を明らかにしようとしたものの、GHQによって1年弱で廃止された、知られざるプロジェクトは、いったいどのようにして始まったのか。井上寿一著『戦争調査会』を特別公開する。

8月15日の車内の光景

1945(昭和20)年8月15日の正午、外出先で玉音放送を聞いた幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)は、電車に乗って帰途に就く。

幣原喜重郎(国立国会図書館蔵)

車内で30代の男が叫んだ。「一体君は、こうまで、日本が追いつめられたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。……おれたちは知らん間に戦争に引入れられて、知らん間に降参する。怪(け)しからんのはわれわれを騙(だま)し討ちにした当局の連中だ」。男は泣き出す。乗客も「そうだそうだ」と騒ぐ。

幣原は心を打たれる。「彼らのいうことはもっとも至極だと思った」。幣原は敗戦の日の「非常な感激の場面」を心に刻んだ。

民政党の第2次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣(1931年4月~12月)の外相を最後に、政治の表舞台から去って10年以上の歳月が流れていた。年齢も70代だった。再起を期すのは遅すぎた。

ところが幣原はちがった。敗戦は好機到来だった。戦争末期から元内務官僚の次田大三郎(つぎただいざぶろう)らの側近が幣原に首相をめざすように要請していたからである。

日本再建の基本方針「終戦善後策」

幣原はすぐに意見書「終戦善後策」をまとめる。4ヵ条からなる「終戦善後策」は戦後日本再建の基本方針である。

第1条は日本に対する連合国の信頼感を深めること、第2条は敗戦にともなう事態の重大性を銘記すること、第3条は国際情勢のチャンスを逃さず日本に有利な新局面の展開を図ること、となっている。

最後の第4条「政府は我敗戦の原因を調査し、其結果を公表すること」は、4項目立てである。記述も詳細になっている。8月15日の光景の反映にちがいなかった。それだけではない。幣原は第4条に記している。「我敗戦の原因何処(いずこ)に在るかは今後新日本の建設に欠くべからざる資料を供するものなり」。敗戦原因の追究は「死んだ子の年を数える」のではなく、新しい日本の建設の礎にすることが目的だった。

10月になると幣原は、「終戦善後策」を携えて、吉田茂(よしだしげる)外相を訪ねる。この意見書を手渡して、幣原は吉田に考慮を求めた。吉田は幣原を首相にする心積もりだった。後日マッカーサーの内諾を取りつけた吉田は、幣原に首相就任を要請した。10月9日、幣原内閣が成立する。

同月30日、閣議は「敗戦の原因及実相調査の件」を決定した。「大東亜戦争敗戦の原因及実相を明(あきら)かにすることは、之に関し犯したる大なる過誤を将来に於て繰り返さざらしむるが為に必要なり」。この閣議決定は「終戦善後策」第4条の具体化だった。

翌11月20日、幣原内閣は「大東亜戦争調査会官制」を閣議決定する。「敗戦の原因及実相」を調査する政府部局が設置される。この調査会は総裁・副総裁各1名、委員25名未満をもって組織し、臨時委員を置くことができるようになっていた。

調査に対する幣原の信念に揺るぎはなかった。幣原の信念の背景にあったのは、あの電車内の出来事だった。幣原は12月2日の貴族院における答弁で強調している。「5年前戦争を主張し企図して、遂に開戦に至らしめた人々に対しまして、国民が公憤を感ずるのは尤(もっと)ものことであると存じます」。8月15日の車内の光景から続く国民の「公憤」に共感する幣原は、調査会を始動する。

難航する総裁ポスト

幣原にとって戦争調査会は「永続的性質」を帯びていた。戦争調査会の総裁ポストは、内閣交代の影響を受けてはならなかった。総裁の指名は勅命による。戦争調査会は継続性を持つ国家プロジェクトだった。