映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体

主人公たちは本当に「大丈夫」なのか
杉田 俊介 プロフィール

もっともリアリティのある登場人物

それでいえば、『天気の子』の「世界の秘密を知る反逆的な若者vs無自覚で堕落した大人たち」というわかりやすい対立図式もまた、相当に戯画的であり、凡庸である(若者の反抗の象徴としての拳銃というのもどうなのだろう)。それはまさに村上春樹的なもの、サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』的なものの劣化コピーであるように思える。

大人たちは堕落して腐っており、子どもたちはイノセントであるがゆえに、生きることの不幸や狂気を強いられてしまう。帆高が陽菜を救出しようとする終盤のクライマックスは、警察や多数派の人々の秩序を乱す反社会的な行動として描かれている。大人たちの欺瞞に反抗する若者の純粋さとして描かれてしまうのだ(そういえば『君の名は。』の公開時、変電所を爆破する瀧たちの反社会的な行動は、共謀罪の対象であり、テロリストのようなものではないか、という議論もあった)。

帆高が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでいるシーンも描かれる

とはいえ、『天気の子』の中で、若者/大人という対立図式のはざまで奇妙な動揺を示している人物が一人、いる。それは東京で帆高の代理父のような役割を担う、須賀圭介である。圭介は帆高を零細編集プロダクションに雇い入れ、仕事と食事と住居を与える。

帆高を親切に庇護したり、こきつかったり、家族のように一緒に暮らしたりしつつも、「常識的な大人」の立場から帆高を抑圧しようともする圭介は、『天気の子』の中でもっとも破綻し、行動がぶれていて、観る側を苛々させるような気持ちの悪さがある。だがその気持ち悪さゆえに、作中でも稀有の奇妙なリアリティがあると感じる。

 

新海監督はおそらく(帆高よりも)圭介に自分を重ねているのだろうが(岩井俊二の「大人っていうのは、だいたい子どもの役に立たないんだよ」という言葉に触れつつ、自分は圭介のような役に立たない大人のほうを愛してしまう部分がある、と言っている)、「ちゃんとした成熟した大人の男性」の像をうまく描けず、それが屈折し破綻してしまうところに、かえって重要な何かがあったのかもしれない。

実際に、『天気の子』に対してはフェミニズム的な立場からの批判は避けられないだろうが、男性学やメンズリブの観点からは、妻を喪ったシングルファザーであり、喘息持ちの幼い娘を義母に連れていかれてしまい、「常識的な大人の男」の殻を破れず、帆高に対しても矛盾した態度を示し続ける圭介の混乱したダメさ、支離滅裂さは、これからの新海作品を考える上でも大切なものなのではないか。

たとえば細田監督の『未来のミライ』のリベラルな父親像や、庵野秀明監督の『エヴァンゲリオン』シリーズのゲンドウのアダルトチルドレン的でDV的な父親像などとも比較しつつ。