映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体

主人公たちは本当に「大丈夫」なのか
杉田 俊介 プロフィール

帆高は物語の中でいわば「セカイ系的な恋愛か、多数派の全員を不幸にするか」という二者択一の選択肢を強いられてしまう。しかしそうした問いを強いたのは誰か。若い世代を応援し希望を託しつつも、そのような社会を作ってきてしまった大人たちなのではないか。

そのことが十分に問われないまま、大人たちは腐っているから仕方ない、あとは若者に希望を託そう、君たちは大丈夫だよ、という論理によって体よく責任を未来に先送りしてしまうこと。それを私は欺瞞的だ、と言いたいのである。社会や環境に対する無力感を強制しつつ、子どもたちの口から自己責任において「大丈夫」と言わせてしまうことが暴力的だ、と言いたいのだ。

それはたとえば作中では天候はコントロール不可能なものとされているのに、話題になった「感情グラフ」(観客の感情を時間の流れの中でコントロールし、感情のピークへと誘導しようとするための仕組み)など、新海監督が観客の感情を積極的にコントロールしようとしている、若者の感情を「大丈夫」な方向へと調整し管理しようとしている、という矛盾とも無関係ではないように思える。

 

「諦念」と「全肯定」の両極端

繰り返すが、地震も津波も異常気象もみんな自然であり、自然は狂ってしまった、だから仕方ない、でも大丈夫――『天気の子』の世界観は、そういう奇妙なロジックを持っている。

デフレ経済下で99%の人間が平等に貧困化していく社会もまた自然現象であるのだし、あるいは新海監督が嫌悪感を露わにする「ネットという自然」(デジタルネイチャー)もまた、そのようなものである、とでもいうかのように(インタビューの発言によれば、新海監督はSNSに蔓延するポリティカル・コレクトネス的な「正しさ」の猛威を、ほとんどコントロール不可能な天候のようなものとして受け止めている)。

しかし「大人」たちが抵抗すべきなのは、「仕方ない」という諦念と、無根拠な「大丈夫」という自己啓発的な全肯定、それらが相補的に補完し合う現実に対してであり、若者や子供たちにそうした二者択一の選択肢を強いてしまうような環境(選択前提)そのものを変革すること、そうした想像力を観客にもたらすシャカイ系のアニメーションを作り出すことではないのか。

私は、主人公の選択には賛否両論があるだろう、というたぐいの作り手側からのエクスキューズは、素朴に考えて禁じ手ではないか、と思う。そういうことを言ってしまえば、作品を称賛しても批判しても、最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまうからだ。

有名なトロッコ問題のように、そのような「仕方ない」か「大丈夫」か、「最大多数の最大幸福」か「個人的な感情」か、という選択肢を若者たちに強いること自体が根本的に間違いであるかもしれないのに。二者択一を超える第三の意想外の選択肢を想像し創造していくこと。決して「大丈夫」とは言えないこの社会を見つめて、それを変えていくこと。しかも老若男女の協力によって。それが「共に生きる」ということなのではないだろうか。