映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体

主人公たちは本当に「大丈夫」なのか
杉田 俊介 プロフィール

「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。

「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

 

細田守監督との違い

その点では新海監督が一番敵対している同時代のアニメーション作家は、細田守監督であるのかもしれない。

『天気の子』では、児童相談所や警察などの公共的なもの(社会養護的なもの)がほとんど理不尽なまでに嫌悪される。それは近年の細田守作品が、リベラルな制度や家族像の重要性を強調しはじめ、たとえば『バケモノの子』では住民票の登録や高認(高等学校卒業程度認定試験)、返済不要の企業奨学金などの制度をめぐって、区役所の公務員らとのやり取りをいちいちリアルに描いていることとは対照的だろう。

国家にも社会にも一切期待しようとしない(信じうるのは恋愛とスピ的なものだけである)新海誠のセカイ系的な想像力は、「社会」を完全に排除するという意味で、案外ネオリベ的なものと近いのではないか

「大丈夫」と言わせているのは誰なのか

二つ目の疑念は、ラストの帆高の僕たちは「大丈夫」だ、というセリフが、どの視点から、誰が誰に向けて言ったものなのか、ということである。全てがじわじわ水没していく、この国も社会もどんどん狂っていく、けれども神様を信じたり恋愛したりして、日々を楽しく幸福に暮らすのは素晴らしいことだし、みんな大丈夫だよ――という論理によって若者たちを祝福するということ。

しかしそれを若者たちへ向けていう「大人」としての新海監督の立ち位置は、無責任なものではないだろうか。

私にはその「大丈夫」という言葉が、どこか、口先だけで若者を応援はするけれども、社会改良の責任は決して負おうとしない大人たちの姿に重なって見えたのである。『天気の子』は大人になることの困難を主題にしているにもかかわらず、新海監督の手つきが大人として十分に熟し切っているように見えないのだ。