映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体

主人公たちは本当に「大丈夫」なのか
杉田 俊介 プロフィール

こうした特徴のもと物語は展開する。腐敗した大人たちは、誰か(人柱、巫女)が犠牲になって最大多数が最大幸福になれるのであればそれで構わない、現実なんてそんなものだ、と自嘲気味にシニカルに諦めていく。

それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。

象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。

 

「社会は変えられる」という感覚の欠如

しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。

たとえばそこでは「人間たちの力によってこの社会は変えられる」という選択肢がなく、社会のあり方もまた気候変動のようなもの、人為の及ばない「想定外」なものとして、美的に情念的に観賞するしかないものとされてしまう。それはまさに日本的なロマン主義であり、そのようなものとしての「セカイ系」(後述)である。

たとえば新海監督が『天気の子』の中に取り込んだアントロポセン(人新世)という地質学的な議論によれば、地球温暖化などの気候変動、生物多様性の急激な破壊、汚染物質の拡散など、すでに人類の力は自然や天候のレベルにまで決定的な影響を与えている。するとそれはエコロジーや環境倫理や世代間倫理など、人間(人類)の責任の問題と切り離すことができないはずである。

つまり「自然現象だから仕方がない」「自然は狂ってしまったけれど、それは人間の力によってはどうにもならない」という責任回避の論理に安易に逃げ込むわけにはいかない、ということだ。にもかかわらず、『天気の子』には、東京の生態系をここまで変えたのは誰か、それを若者や将来世代に負担させるのはどうなのか、というエコロジカルな問いが一切ない。