(c)2019「天気の子」製作委員会

映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体

主人公たちは本当に「大丈夫」なのか

【本稿はネタバレを含みます】

「アニメ化する日本社会」を批判するアニメ

新海誠監督の新作『天気の子』を観て、疑問を持った。その疑問について書く(今回は枚数制限があるため、他の新海作品との比較などは行わない。私の新海誠論については『戦争と虚構』(作品社、二〇一七年)を参照)。

『天気の子』の舞台は、異常気象でもうずっと陰鬱な雨の止まない、東京オリンピック・パラリンピックの翌年の東京である。伊豆諸島の離島・神津島から何らかの事情で家出し新宿でネットカフェ難民となった高校生の森嶋帆高(ほだか)と、母を病気で失って弟の凪(なぎ)と二人で安アパートに暮らす天野陽菜(ひな)――天に祈ることで天候を晴れに変える力をもった「100%の晴れ女」――のボーイ・ミーツ・ガールの物語である。

身寄りもなく、経済的にも貧窮した彼らは、陽菜の「晴れ女」の力を使って小さなベンチャービジネスを始めるが、陽菜はその能力の代償として、次第に体が透けていき、この世のものではなくなってしまう。物語の中盤、陽菜という巫女的少女を人柱にして東京の街には再び晴れ間が戻るが、帆高はたとえ東京中の人間が不幸になったとしても、陽菜という一人の少女を救出することを決意する。

〔PHOTO〕『天気の子』予告編より引用

その結果、それから三年が過ぎ、帆高が一八歳になって高校を卒業する頃になっても、陰鬱で憂鬱な雨は降り続き、東京は半ば水没してしまっている。ゆっくりと水没していく東京の街は、経済的貧困や格差化、少子高齢化によって衰退していく日本社会の未来を象徴するものにも思える。

ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。

 

『天気の子』においてもうひとつ特徴的なのは、スピリチュアリズムとの親和性だ。特に前半において、稲荷神社や龍神系などの神道系のスピリチュアリズムを、オカルト雑誌『月刊ムー』をステップボードにして楽天的に肯定してしまう『天気の子』には、オウム真理教やカルト宗教などの危険性に敏感だったかつての時代的空気を吹き飛ばすような、あるいは「日本会議」的な歴史の神話化とも共振するような、危ういものがあるようにもみえる。

国家も社会も信用できない現代日本人においては、『ムー』的なフェイクなオカルトや疑史的想像力で構わないから、スピリチュアルなものが必要なのだ、と。

とはいえ、『天気の子』が日本的スピリチュアリズムを全肯定しているかは、よく考えれば微妙ではある。帆高は物語の終盤、陽菜が巫女として消費され、人身御供になってしまうことに「抵抗」するのだから。