フェミニストは「賢い都会の女性」という風潮への違和感

フェミニズムが「枠」に縛られないために
栗田 隆子 プロフィール

「都会偏重フェミニズム」の限界

ウーマンリブ、そしてフェミニズムが問題提起してきたこれらの出来事は、それこそあらゆる女性が一度ならずともぶつかってきた問題です。

しかし、その前に考えたいことがあります。どうしてそもそも「フェミニスト=大学卒の女性」というイメージがあるのでしょうか。もっと言えば、中流以上の階級であったり、都市近郊に住む女性のイメージがあるのは、なぜなのでしょうか。

 

それはまず、これまでの世の中では、女性に対して「突出してはならない」という規範がものすごく強かったからこそ、男性と伍して、競争を勝ち抜く「突出する女性」をアピールする必要があったからではないか、と私は考えます。少なくとも、そのような「突出を許さない」規範の存在を見逃してはならないと思います。

いまだに企業の管理職や経営層に女性が少ない、あるいは先日の東京医大の入試不正事件のように、こっそりと男性に高下駄をはかせるような採点・採用基準が存在しているといった具合に、日本社会には女性の「突出」を許さない状況があります。

しかし、こうした文脈からは漏れてしまうような、「非大卒のフェミニスト」、「地方在住のフェミニスト」、「いわゆる中流階級ではないフェミニスト」などがいても、全くおかしくはないはずです。と言いますか、実際にはこうした「フェミニスト」も存在しているのに、しかしその「イメージ」が、恐ろしいほど乏しいのです(もちろん、「突出する女性」がよくないという意味ではありません)。

私は高校生のときに女性センターで初めてフェミニズムに触れた、という話を先ほどしましたが、このことを知ったある知人が、

「10代で江原由美子さんの講座に出席していたなんて、都会の子は違うな」

という感想を伝えてくれたことがありました。それこそ、その当時は自分が都会に住んでいるという条件やその特権に気づくことができなかったのですが、自分が「都会」に住んでいることで、そのような「知」としてのフェミニズムに触れやすかったことに、指摘を受けて初めて気づかされました。

そういう地域差や階層差、情報や環境の格差を考えず、都会があたかも「標準」であるように語っていくとしたら、それこそフェミニズムは「都会の人のもの」で終わり、社会を変えるという意味でも、貧弱な力しか持ちえないでしょう。