フェミニストは「賢い都会の女性」という風潮への違和感

フェミニズムが「枠」に縛られないために
栗田 隆子 プロフィール

「性差別意識」は誰にでもあるから

とはいえ肝心なのは、そのように「フェミニスト」と自称する私の主張とその生き様が、実際に何を生み出すかですし、「フェミニズム」という思想にただの一つの瑕疵もないとも思っていません。フェミニズムは、私にとっては生きていく糧であり、それゆえに批判も疑問も全力で投げかけてきた、そういう存在なのです。

例えばフェミニストの中には『フェミニズムはみんなのもの』(”Feminism for everybody”)という本を書いたベル・フックスという女性がいます。

彼女はいわゆる「黒人」、アフリカ系のアメリカ人です。彼女は従来のフェミニズムが白人中流階級の女性中心であったことを批判し、フェミニズムはそのような白人女性だけではなく、性差別と闘う全ての人のものであることを説きます。

そして、男性への怒りを表出することだけがフェミニズムではなく、女性の側や、自分自身の意識の中にも巣食う性差別意識と闘うのがフェミニズムであると語ります。フックスは、フェミニストとなって一番最初の具体的な闘いの相手は自分の母親であったことをカミングアウトしています。

 

そういえば私自身、「フェミニズム」を具体的に知る前の10代半ば、街で知らない男性から声をかけられ写真を撮られそうになった(あるいは撮られたのか……そのあたりの記憶は曖昧なのです)後に、母親にその話をしたところ、

「お前に隙があるからいけないのだ」

とひどく怒られたことがあります。

思えば、その私に声をかけた男性が一番おかしいのですが、同時に私に「隙がある」と責めた母親の行為は、今考えると二次加害に等しいものです。

私は母親のことを嫌いではありません。しかし、その男性に怒るのではなく、私を怒った母親の声色は、今でもはっきり覚えています。

フェミニストになるということは、その男性に対して怒ると同時に、性別を問わず、そのような二次加害に追い込む存在に対しても疑問を投げ込む力を持つことなのだ、とフックスを読んだ時に学びました。