餓死、物乞い、スリ…戦争が生み出した「浮浪児」その厳しすぎる生活

金もなければ食べ物もない
石井 光太 プロフィール

元浮浪児の菅野恭一郎は次のように語っていた。

「闇市で食べ物を拾っていたりすると、屋台の主人が『坊主、こっちで働け』って声をかけてくれるんですよ。お駄賃なら、2、30円もらえたかな。屋台のうどんが5円の時代だったので満腹になることができましたね。時々、テキヤの人がお小遣いをくれることもあるんですよ。『ぼうず、ひもじい思いしてんな、これでも食え』ってお金をくれる。あの人たちも戦争で苦労してきたので、僕みたいな浮浪児をあわれに思って助けてくれたんでしょう」

当時のテキヤは、今の暴力団とちがって、アウトローではあったが、町の顔役みたいな役割を持っていたし、警察からも闇市の取り締まりを求められていた。そういう意味では、まだ人情というものがあった時代だったのだ。

さらに闇市の影響で上野駅がにぎわいだすと、子供たちは駅前で様々な商売をはじめた。「バタ屋(廃品回収業、ゴミ拾い)」「モク拾い(煙草の吸殻を拾って売る)」「新聞売り(新聞社で買ってきた新聞を少し利益を乗せて売る)」などだ。

人気があったのは靴みがきだ。靴みがきの少年は「シューシャインボーイ」と呼ばれていた。駅を出たところに、木箱を抱えてずらっと並んで、「靴みがきはどうですか」と叫んで客引きをする。

元浮浪児によれば、靴墨はチョコレートをくれる進駐軍の兵隊に頼んでPX(進駐軍専用の売店)から買ってきてもらい、靴を磨く布は電車の座席のシートをカッターで切ったものをつかっていたという。人々も浮浪児を哀れに思って積極的に靴をみがかせてあげていた。

 

盗みが見つかって撃ち殺された子も…

こうした子供たちの中には、スリや盗みといった悪事をして食いつないでいかなければならない子も少なくなかった。

スリは、通称「チャリンコ」と呼ばれ、犯罪の中でも花形だった。テクニックもいろいろとあった。「ナタ切り」といってカミソリでバッグを上から二つに裂いて中身を取る方法、「てつぽう」といって通行人の右胸にぶつかり、そっちに神経がいっている間に左胸のポケットのサイフを抜き取る方法などだ。

こうしたスリの技術を身につけるための「スリの学校」なるものまであった。スリの名人が浮浪児たちを一つの家に住まわせて、スリの技を徹底的に教え込み、その上前を撥ねるのだ。

実際に、私が取材した元浮浪児によれば、山谷や深川や川崎などにスリの学校があって、ここへ行くと1週間くらい豪遊させてもらえて、その後に良い暮らしをつづけたければスリになれと言われるということだった。今ならば、窃盗集団に組み込まれたというべきだろう。