餓死、物乞い、スリ…戦争が生み出した「浮浪児」その厳しすぎる生活

金もなければ食べ物もない
石井 光太 プロフィール

地下道での生活は非常に厳しいものだった。

敗戦後の日本は空前の食糧難に襲われていた。当然、路上で暮らす人々にまで救済の手は届かず、当時の新聞では「上野駅で処理された浮浪者の餓死死体は多い日に6人を数へ、先月の平均は1日2.5人だった」(朝日新聞10月18日)と記されている。

だが、元浮浪児によれば、「仲間の死体は自分たちで片づけていたから、もっと多いはずだよ。1日十数人は死んでいたはず」とのことだった。

忘れてはならないのが、自殺者も多かったことだ。浮浪児の中には、小学生低学年くらいの幼い子もたくさんいた。

彼らは日中は物乞いをしたり、ゴミをあさったり、時には犬や猫を殺して食べてなんとか生きていたが、飢餓、寒さ、病気、差別などの中でだんだんと生きる気力をそがれ、自ら命を絶つことを選んだ。

元浮浪児で後に暴力団員となった石原伸司(2018年に殺人事件を起こした後に自殺)によれば、浮浪児仲間とともに墨田川のほとりを歩いていたところ、一人が「もう疲れたよ」とつぶやき、そのまま川に飛び込んで死んだという。

また、農薬を飲んで自殺を図ろうとしたものの死にきれず、三日三晩血を吐いてもだえ苦しんで死んだ子供もいたそうだ。

 

上野と闇市の関係

上野に集まった浮浪児たちを救ったのが、終戦からほどなくして現在のアメ横に生まれた闇市だ。

この闇市は朝鮮出身の人たちがつくったのがはじまりとされ、その後日本人たちが次々と露店を建てていた。

浮浪児たちの中には、闇市の露店の手伝いをする者も出てきた。皿洗いをしたり、箱の上に乗って商品のたたき売りをしたりする。1日働けば、露天の店主から1日分のまかないや小遣いをもらえたという。

また、未就学児くらいの小さな子たちは働くことができないので、落ちているものを漁った。露店の前に転がっている野菜や残飯を拾って食べたり、小銭を拾って懐に入れたのだ。