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餓死、物乞い、スリ…戦争が生み出した「浮浪児」その厳しすぎる生活

金もなければ食べ物もない

本当の戦争のはじまり

戦争の犠牲となるのは、いつもか弱き者だ。敗戦後、日本には戦災で両親を失った戦災孤児の数が約12万人にのぼったといわれている。このうち、引き取り手がおらず、路上で身一つで生きなければならなくなった「浮浪児」と呼ばれた子供たちは3万5千人に上ったと推測されている(「朝日年鑑」1947年)。

私は10年来、元浮浪児たちに会い、その体験を記録するという取材を進めてきた。2014年には『浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―』(新潮文庫)というノンフィクションに、それらの成果をまとめた。

その経験から言えば、実態は3万5千人以上に上るだろう。後に述べるように、浮浪児には戦災孤児以外からなった者もおり、それを合わせると膨大な数に上ったことは想像に難くないからだ。

元浮浪児の一人は、私にこんな言葉を残した。

「日本の終戦記念日は昭和20年8月15日なんだよ。だけど、そこから先が、浮浪児にとって本当の戦争のはじまりだった。生き延びるための戦争だ。そのことを知ってほしくて、君に初めて浮浪児だった時のことを語るんだ」

これから述べるのは、そうして語られた浮浪児たちの証言にもとづいた歴史だ。

 

「仲間の死体は自分たちで片づけていた」

浮浪児たちの多くは戦時中の空襲によって生まれた。終戦の年の1945年の冬から夏にかけて、東京、大阪、仙台、愛知、福岡など日本中の都市が米軍の空襲にさらされた。ここで親を失った子供たちが、誰に頼ることもできずに町の路上で寝起きする「浮浪児」となっていったのである。

東京では上野駅に浮浪児が多く集まっていたといわれているが、それには理由がある。3月10日の東京大空襲によって、東京の下町は焼け野原となってしまった。まだ寒いその時期、寒風を避けられる数少ない場所が上野駅の地下道だったのだ。

上野駅の地下道には最大で7千人くらいが暮らしていたといわれており、元浮浪児たちの証言によれば、混雑しすぎて横になることはできず、大小便もその場でしていたという。このうち、子供の数は1割から2割。つまり、上野の地下道だけで最大で千人前後の浮浪児が寝起きしていたことになる。