日韓が「敵対関係」の中、「慰安婦像」という劇薬がもたらしたもの

「表現の不自由展・その後」中止を考察
原田 隆之 プロフィール

すっきりしないこと

とはいえ、一連の騒動を見ていて、「政治の芸術への介入」、「表現の自由の妨害」、「偏狭な人々の暴言」などと強く批判したいころだが、何かすっきりしないものがある。

それは、そもそも今回の芸術監督の津田大介氏は、芸術監督にふさわしかったのだろうかという疑問である。これまでの津田氏の活動には、敬意を表するところもあるが、彼は果たして芸術家なのだろうか。

事実、今回の芸術監督の就任に際して、本人自ら「依頼をいただいた時には思わず二度見しましたが、物事の本質や、その多様な見方を他者に伝えるという意味で、アートとジャーナリズムは共通する部分があると思い、お引き受けすることにいたしました」と明かしている。

つまり、本人も芸術家としてのアイデンティティはなく、自らをジャーナリストとして定義している。

だとすると、畑違いの人間が、芸術監督という重責を引き受けたことは、軽率の誹りを免れないのではないか。依頼するほうもするほうだが、受けるほうも受けるほうだ。

もちろん、芸術は政治や思想と独立したものではないし、さまざまな思想が芸術作品を通して声高に叫ばれたこともある。一方で、芸術が偏った政治的プロパガンダにも利用される。今回反発をした多くの人のなかには、芸術監督の人選をみて、そのようなプロパガンダ臭を感じ取った人も少なからずいたのではないかと思う。

 

劇薬としての芸術

今回の試みはあまりにも、アバンギャルドすぎた。劇薬であったと言ってもよい。芸術にはたしかに偉大な力があるが、劇薬はときに重大な副作用を引き起こす。

芸術には、ときに良識や常識を壊すくらいの無謀さがないといけないという意見もあるだろう。しかし、門外漢にちかい芸術監督がそれを述べたところで、誰もすんなりとは受け止められない。

そして、芸術に対する介入を、芸術への信念と価値を盾にして守ることができなかったのは、酷な言い方かもしれないが、やはり門外漢だったからだ。

今回の騒動は、芸術の力の大きさを、図らずも本来の意図とは違う形であからさまにしたといえるだろう。そして、残念なことに「表現の不自由史」に1つの新たな禍根を残してしまった。