僕がフジロックに絶望した理由…「夏フェス」を劣化させたのは誰か

在りし日の魅力が消えてしまった
雨宮 旅人 プロフィール

だが、一方で思うのは、フジロックなどのフェスに来ることができる人は、ある程度の収入がある人ではないか、ということだ。安くはないチケット代を払うことができる人は限られているだろう。ある程度の年収のある、余裕のある大人、ということになる。

もしかしたら、フェスの観客の高齢化、ということは影響しているかもしれない。椅子に座らないと体力がもたず、羞恥心が麻痺して人からどう見られているかが気にならない人々がマナーを低下させている、ということはいえるかもしれない。このことについては確信が持てないが、そういう側面が少なからずある、と思う。

本当の「自由」を求めて

それにしても、17年間通い続けたフェスに、ひと言で言えば「もう行かなくていいかも」と思わせてしまうものが、出演者の魅力の低下や、自然の過酷さや、チケット代の高さではない、ということに自分でも驚いている。客のマナーが低下しているだけで、フジロックというフェスの魅力が失われてしまったのだ。

それはなぜなのか、ということをずっと考えている。

おそらく、失われたのは、マナーではなく「自由」なのだ。

自分の行動が人に与える結果を想像し、自分の行動の規範を決めること、そのことが「自由」なのだ。だが、今のフジロックにその自由はない。

かつてのフジロックではテントやタープ(キャンプで使われる日差しや雨を防ぐ広い布)を会場に持ち込むのも自由だった。だが、タープが乱立した結果、後ろの人たちがまったくライブを見られない、という不都合が起こり、それらの持ち込みは禁止された。

同じように、椅子の持ち込みが禁止され、マイボトルの持参が義務づけられ、スマートフォンの持ち込みが制限されるフェス、そんなフェスが、楽しい、と果たして言えるだろうか。

 

だが、このままではいずれそうなる。

自由とは、「放埒(ほうらつ)」と同義では決してない。誰かに言われなければ、人の痛みや迷惑を想像できない人間は、管理されるしかなくなる。そうなる前に、自分たちで自分を管理する、本当の「自由」が必要なのだ。

フジロックにその自由が戻ってきて、また特別な空間になることを願っている。大好きなフェスの悪口なんて言いたくない。だけど、声を上げていかなくてはこのままだと本当にダメになってしまう、と思っている。

今回僕が、そして他の誰かが感じた怒りや悲しみが、新しい幸せな空間を作る糧になることを願ってやまない。