【太平洋戦争の教訓】勝って驕り、そのために大敗する日本人の悪癖

生還者が語ったサボ島沖海戦の教訓
神立 尚紀 プロフィール

「天命を待って人事を尽くす」のが本当じゃないか

武田さんに、袱紗(ふくさ)に包んだ卵大の金属塊を見せてもらったことがある。表面には、英字の刻印がいくつか見てとれる。

「ミス・ヘレナからの贈り物です」

と言って、武田さんはニッコリ笑った。サボ島沖海戦のあと、左大腿部から摘出された軽巡「ヘレナ」の主砲弾の弾片だという。「青葉」が沈没を免れて帰投し、武田さんの命が助かったのはまさに奇跡だった。

武田さんは負傷療養ののち、空母「隼鷹(じゅんよう)」機銃分隊長としてなおも数次の作戦に従事し、さらに第十七駆逐隊の駆逐艦「濱風(はまかぜ)」水雷長(先任将校)としてマリアナ沖海戦、比島沖海戦などに参加した。

昭和19(1944)年10月の比島沖海戦では戦艦「武蔵」の沈没を目の当たりにし、続いて11月には、横須賀から呉に回航途中で撃沈された空母「信濃」(「大和」型三番艦を建造途中に空母に変更)の最期を見届けている。

昭和20(1945)年4月7日、戦艦「大和」以下の水上特攻で、「濱風」は、敵機の空襲が始まってほどなく撃沈され、武田さんは東シナ海を漂流しながら、「大和」が大爆発を起こして沈没するのを間近に見ていた。

武田光雄さんが「青葉」「隼鷹」の次に乗組んだ駆逐艦「濱風」。大戦を通じて活躍したが、昭和20(1945)年4月7日、戦艦「大和」とともに水上特攻隊として出撃、撃沈された

「これで、祖父の代から営々と築いてきた海軍も終わりだなあ、と思いました。私は、『平家物語』を子供の頃から愛読していましたが、平知盛が壇ノ浦で、平家の水軍を指揮して奮闘したのちに、『見るべき程のことは見つ』と自ら身を沈めた場面が思い出されました」

そして8月、武田さんは、久里浜の水雷学校分校の教官として、大尉で終戦を迎えた。戦後はしばらく復員業務に携わったのち、東京大学経済学部に進み、卒業後は三菱電機などに勤めた。

「戦争中に乗組んだ3隻は、いずれも運のいい艦でした。よき上官、精強なよき部下に恵まれて、海軍では存分に働かせてもらったと思っています。私は終戦のとき25歳でしたが、自分の人生は戦争とともに終わって、残りは付録のような気がするんですよ。『人事を尽くして天命を待つ』というけれど、私はそれは人間の増長であると思っています。天命というものがまずあって、『天命を待って人事を尽す』のが本当じゃないか。それが戦いを通じての実感です」

武田光雄さん。左は昭和19(1944)年1月、空母「隼鷹」分隊長の頃。右は60年後の平成16(2004)年の姿(戦後の写真は撮影/神立尚紀)

諸行無常の人の営みは、いつの世も変わりがない。「平家物語」の平氏の盛衰は、のちの帝国海軍の終焉をも暗示していたのかもしれない。戦って勝ち、勝って驕り、そのために敗れる――現代を生きる私たちが、歴史から学ぶべきことは多い。