【太平洋戦争の教訓】勝って驕り、そのために大敗する日本人の悪癖

生還者が語ったサボ島沖海戦の教訓
神立 尚紀 プロフィール

海戦としては、史上まれに見る一方的勝利

ソロモンの海に日が沈み、艦隊は予定の戦闘海域に近づいた。『戦闘服装ニ着替エ』の命令が出され、武田さんは、半袖の防暑服から、この年2月に亡くなった祖父の形見の第二種軍装(白の夏軍服)に着替えて艦橋に立った。背の高い武田さんには、祖父のズボンだけは短かったので、自分のものを履いた。

午後9時過ぎ、照明隊の水上偵察機(水偵)3機が、「鳥海」「青葉」「加古」のカタパルトから射出された。戦闘に備えて、航空機用ガソリンや内火艇、魚雷用燃料などの可燃物を海中に投棄する。10時7分、針路前方にサボ島を認めた。同時刻、「鳥海」の水上偵察機が敵艦隊を発見。10時40分『戦闘用意』、続いて11時31分、『全軍突撃セヨ』が下令される。天候は曇り、海上は平穏で、多少の濛気(もうき)は含んでいるものの、視界は約10キロ、月の出まではまだ1時間半あった。

まもなく左4度に敵艦隊発見。これはオーストラリア海軍の重巡「キャンベラ」、アメリカ海軍の重巡「シカゴ」と駆逐艦2隻だった。ただちに上空の水偵に吊光弾の投下が命じられ、各艦は単縦陣で、敵艦に対して魚雷発射、次いで全砲火を開いて猛射を浴びせた。途中、五番艦「古鷹」が、よろめいて前方に出てきた敵重巡を避けるために左に転舵し、単縦陣が崩れて左右に分かれる隊形になったが、これがかえって幸いし、次に現れた敵艦隊を挟み撃ちする形となった。

11時48分、こんどは左20度、距離7000メートルに、米重巡「アストリア」「クインシー」「ビンセンス」ほか駆逐艦2隻を発見。「鳥海」はすかさずこの敵に、探照灯を照射した。

「あれには驚きました。探照灯を照射すると、敵艦がよく見えて射撃はしやすくなりますが、同時に、敵にとっても恰好の攻撃目標になりますから。長官が、二番艦以下のために、捨て身でこういう命令をくだしたのには感激しました。この指揮官のためなら、という気持ちが自然に湧きましたね。三川長官と五藤司令官は、海軍兵学校三十八期のクラスメートで、長官は、自分に何かあってもあとは司令官に任せられるという気持ちだったのでしょう。同期生とはそういうものですよ。三川長官の『指揮官先頭単縦陣、探照灯照射』は、統率の一つの具体的な回答であるように思いました」

昭和17年8月8日夜、第一次ソロモン海戦で、重巡「鳥海」の探照灯に照らし出された米重巡「クインシー」

敵艦はみるみる近づいてくる。主砲はもちろん、高角砲や機銃まで動員しての、舷舷相摩(げんげんあいま)するような近接戦闘となった。火線が次々と吸い込まれるように敵艦に命中する。飛び交う光条、夜空を焦がして巨大な火柱が上がる。

「遮光用の黒いビロードで覆われた海図台から顔を出して外を見ると、敵艦にパッパッと火花が飛んで、搭載された飛行機が燃え上がるのが見える。息を呑んでその光景に見とれていると、航海長から、『おいコシ(航海士)、位置は大丈夫か』と声をかけられ、『ハイ、大丈夫です』と答えて、また海図台に首を突っ込んで、恰好だけ仕事をする。私としては、こんな勝ち戦の模様はめったに見られないと思って、見たくてしようがないわけです」

武田さんは日記に、〈戦闘は美しきものなりと感じた。破壊の美である。〉と、そのときの率直な感想を記している。

次々と燃え上がり、沈みゆく敵艦。本来ならば戦闘中に必要以外の声を出してはならない艦橋のなかも、このときばかりは歓声につつまれた。退役機関中将の祖父のもとで育った武田さんは、外の見えないエンジンルームで奮闘する機関科員のために、燃えている敵艦の簡単なスケッチを、艦橋のエアシューターから機関室に送って戦闘状況を知らせる配慮も忘れなかった。

第一次ソロモン海戦で、炎上する敵艦隊を「鳥海」から遠望する

第二次の戦闘が開始されてほどなく、米重巡「ビンセンス」が、満身創痍になりながらも、後部マストに星条旗をはためかせて、「青葉」に向かってくるのが見えた。

「星条旗が炎に照らされて、はっきりと見える。そこで、『あれは敵の旗艦だ、大将を討て!』とばかりに猛射を浴びせたんです。どんどん距離は近づいて、1000メートルを切りました。敵は主砲を撃ついとまもなく、艦橋の機銃で応戦します。すると突然、『ビンセンス』が鳴らす汽笛の音が響いてきました。それはあたかも、断末魔の叫びのようでした」

8隻の日本艦隊は、それぞれ敵艦に有効な攻撃を加えた。後半は混戦模様になり、「古鷹」が味方探照灯の光芒のなかに浮かび上がったりもしたが、夜目にも白い檣桁の吹流しが功を奏して、同士討ちを避けることができた。

「鳥海」が最初の魚雷を発射してからわずか35分で、敵艦隊は壊滅、月出前の海面にふたたび静寂が訪れた。この海戦で、連合軍側は豪重巡「キャンベラ」、米重巡「アストリア」「クインシー」「ビンセンス」の重巡4隻が沈没、重巡1隻、駆逐艦2隻が大中破、1000人を超える戦死者を出した。日本側の損害は、「鳥海」に敵の20センチ主砲弾2発が命中、戦死者34名を出したほかは、「衣笠」で1名が戦死、「青葉」が敵機銃弾で小火災を起こしたのみ。翌8月9日、カビエンへの帰投を目前に、「加古」が敵潜水艦の魚雷で撃沈され、34名の戦死者を出して画竜点睛を欠く結果となったが、海戦としては、史上まれに見る一方的勝利だった。この戦いを、日本側は「第一次ソロモン海戦」と呼んだ。

米海軍の重巡「クインシー」(上)と「ビンセンス」(下)。いずれも日本の重巡と同等の8インチ(20.3センチ)砲9門を搭載していた

このとき、敵重巡部隊を壊滅させたのみで、ガダルカナルにいるはずの敵輸送船団を攻撃しなかったことについて、三川中将がとかくの批判にさらされることがある。だが、それまで一度の合同訓練もしたことがない寄せ集め艦隊の緊急出動で、洋上で合流した各艦への命令伝達も出撃後の手旗信号、しかも夜が明ければ敵飛行機の攻撃にさらされる危険があることなどを考えれば、これ以上の成果を求めるのは酷であろう。武田さんは、伝達された攻撃目標に、「敵輸送船団」が入っていた記憶はないと言う。

「米側記録で戦後に知ったことですが、この日の幸運は、敵の指揮系統の乱れのせいでもあったんです。敵艦隊の主要な各指揮官が会議で戦列を離れて、統一指揮官がいないところに、強烈な個性の指揮官のもと、我が艦隊が一本棒で突っ込んでいったわけです。そしてこの日、われわれがもっとも怖れていた敵空母部隊も、はるか南の戦闘圏外に避退していた。これはこの日、昼間雷撃に出撃して全滅に近い損害を出した、味方航空部隊(陸上攻撃機隊)の頑張りがあったからだと、私は思っています」