第一次ソロモン海戦とサボ島沖海戦に参加した重巡洋艦「青葉」。昭和2(1927)年、公試運転中の姿

【太平洋戦争の教訓】勝って驕り、そのために大敗する日本人の悪癖

生還者が語ったサボ島沖海戦の教訓

大日本帝国海軍は太平洋戦争の緒戦である「真珠湾攻撃」を華々しい勝利で飾るが、その7ヵ月後には「ミッドウェー海戦」で大敗。

それでも、その2ヵ月後の「第一次ソロモン海戦」で、史上稀に見る一方的勝利を収めた。ところが、またその2ヵ月後、前回の勝利に驕り、自ら勝ちを手放すかのような手痛い敗戦を喫する。

古より、この国には「驕る平氏は久しからず」という格言がありながら、この国のリーダーたちはなぜ同じ過ちを繰り返すのだろうか。

「遂にVirginで死ぬかそれも又よからん」

水上偵察機が吊光弾を投下すると、漆黒の海面に、4隻の敵艦のシルエットがくっきりと浮かび上がった。昭和17(1942)年8月8日夜、日本海軍第八艦隊の8隻は、司令長官・三川軍一中将座乗の旗艦・重巡洋艦「鳥海」を先頭に、重巡「青葉」「加古」「衣笠」「古鷹」、軽巡「天龍」「夕張」、駆逐艦「夕凪」の順で、単縦陣となって次々と雷撃、砲撃の火ぶたを切った。

武田光雄さん(1920-2006)は、第六戦隊司令官・五藤存知(ありとも)少将が座乗する二番艦「青葉」の航海士として、のちに「第一次ソロモン海戦」とよばれるこの夜戦に参加していた。当時、21歳の海軍少尉だった。

武田さんは大正9(1920)年、東京生まれ。海軍きっての国際派として知られた海軍大将・豊田貞次郎の次男として生まれたが、母方の武田家に跡取りがいなかったことから、祖父・武田秀雄氏の養子となった。祖父は明治海軍の草分けの機関科将校で、海軍機関中将で退役したのちは三菱に招かれ、武田さんが生まれた頃には三菱造船の会長を務めていた。

武田光雄さん(左)と、祖父・武田秀雄氏(海軍機関中将、三菱造船会長)。昭和16(1941)年8月、海軍兵学校での最後の夏休暇で帰省した際に撮影

昭和13(1938)年、海軍兵学校に七十期生として入校。日米開戦を間近に控えた昭和16(1941)年11月に繰り上げ卒業すると、少尉候補生として恒例の練習航海も、天皇陛下の拝謁もないままに、クラスメート432名全員がただちに艦隊に配乗され、武田さんは「青葉」乗組を命ぜられた。「青葉」は、昭和2(1927)年、祖父が会長時代の最後に三菱長崎造船所で竣工した巡洋艦で、進水式に列席した祖父から記念品や絵葉書をもらっていたこともあって、武田さんには子供の頃から思い入れの深い艦(ふね)だった。

重巡洋艦「青葉」。昭和2(1927)年、公試運転中の姿。この頃、7歳だった武田さんは14年後、乗り組むことになった

海兵七十期の卒業からわずか23日後、太平洋戦争が始まる。武田さんは、水雷士(魚雷を扱う水雷長の補佐)としてグアム島、ウェーク島、ラバウル攻略、珊瑚海海戦に参加。昭和17(1942)年6月、少尉に任官すると、7月、艦内の配置転換で航海士となる。

7月14日、戦時の編成替えで「青葉」「衣笠」「古鷹」「加古」からなる第六戦隊は、新編の第八艦隊(外南洋部隊)に編入された。第八艦隊が担当するのは、赤道以南で、おもにニューギニア、ソロモン諸島の海域である。アメリカとオーストラリア間の交通路を遮断し、米軍が豪州を経由して南から反攻に転じるのを防ぐため、日本軍は早くから、その中心に位置するニューブリテン島ラバウルを占領、ここを足がかりにソロモン諸島、そして連合軍の一大拠点であるニューギニアのポートモレスビーを窺っていた。

ところが、8月7日、日本海軍が飛行艇基地を置いていたソロモン諸島のツラギ島、およびその対岸で、日本海軍が建設中の飛行場がほぼ完成したガダルカナル島に、突如として米軍が上陸を開始。これは結果的に、戦争の帰趨を左右する、米軍の本格的な反攻の始まりだった。

この日、第六戦隊司令官・五藤存知少将は、「青葉」「加古」「衣笠」「古鷹」および「鳥海」を率いて、ニューギニア作戦を支援するため、ニューアイルランド島カビエンを出港したところだったが、「ツラギに敵上陸」の一報を受け、ただちに作戦を中止して第八艦隊司令部のあるラバウルに向かった。第八艦隊司令部では緊急の会議がもたれ、ツラギ、ガダルカナルの敵上陸部隊に、夜襲で一矢を報いる方針に決する。司令長官・三川軍一中将は、ラバウルで「鳥海」に乗艦、自ら陣頭に立つ決意を行動で示した。

重巡「青葉」(上)と「鳥海」(下)。「青葉」は20.3センチ砲6門と61センチ魚雷発射管8門、「鳥海」は20.3センチ砲10門と61センチ魚雷発射管8門を、それぞれ装備していた

「三川長官はラバウルに着任したばかりで、私たち乗組士官はまだ伺候もしておらず、もちろん作戦上の打ち合わせもしたことがありません。しかし、その長官が、『鳥海』の檣頭に中将旗を掲げて湾内から出てきて、先頭に立っただけで、こんどの長官は違う、やるぞと、艦隊総員の士気は非常に上がりましたね」

――「こんどの長官は違う」とは、第八艦隊の編成以前に第六戦隊が指揮下に入っていた第四艦隊司令長官・井上成美中将が、まったく戦う気概を見せず、ましてや陣頭指揮などしたこともなく、若手士官たちからやや軽んじられていたからだ。日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎・聯合艦隊司令長官がそうであったように、「指揮官先頭」こそが海軍のモットーであり伝統であるとされる。三川中将が自ら先頭に立ったことは、どんな言葉を弄するよりも、将兵の闘志を奮い立たせたのだ。

第八艦隊司令長官・三川軍一中将(左)と、第六戦隊司令官・五藤存知少将(右)。この2人は海軍兵学校の同期生だった

ラバウルからガダルカナルまでは約1000キロの航程である。ラバウル湾口で、第十八戦隊の「天龍」「夕張」「夕凪」の3隻とも合流して8隻となった第八艦隊は、寄せ集めの戦力ながら、24ノット(時速約44キロ)の高速で、一路ガダルカナルへ向かった。

明けて8月8日早朝、第八艦隊は4機の索敵機(艦載水上偵察機)を発艦させ、そのうち「青葉」搭載の1機が、ガダルカナル島沖に敵の大艦隊を発見した。武田さんのこの日の日記には、〈相当の兵力なり。これに突込む吾人は、基地の飛行機以外に飛行機の援助なし。ただ死中に活を求むるのみなり。人生二十一年これで終わりかと思うと別に思い残すことも無し。遂にVirginで死ぬかそれも又よからん。〉とある。

航程も半ばの午後2時42分、ここで初めて、戦闘要領の詳細が、「鳥海」から手旗信号で各艦に伝えられた。ガダルカナルとツラギの間に位置するサボ島の南側から進入、突入時の速力は24ノット、隊形は旗艦「鳥海」を先頭に単縦陣、開距離1200メートルとする、まずガダルカナル島前面の敵を雷撃(魚雷攻撃)したのち、取舵(とりかじ。左に転舵)に反転、ツラギ前面の敵を砲雷撃し、サボ島北方より避退する。射撃は各艦指揮官の所信に一任、各艦の両舷檣桁(しょうこう/マスト左右の桁)に、味方識別の白い吹流しを掲げる、というのがその要旨である。