(C)2019「天気の子」製作委員会

東京の閉塞を描く『天気の子』は「わたしたち」の物語になるだろうか

良い意味での裏切り、そして懸念…

「わたしたち」の物語

かつて新海誠の『君の名は。』をみて違和を感じたのは、そこに地方の「破壊」と、東京の「肯定」が描かれていたことである(『君の名は。』が、感動のウラで消し去ってしまったもの)。

「糸守」という地方は破壊の危機に瀕し、実際一度は破壊されるが、東京はそうではない。スペクタクルとして呼び物になったはずの東京の災厄は意図的に描かれずに、地方の「破壊」と「救済」がテーマとされたことに、東京の思い上がりと、非切実さを感じたのである。結局、これは安全な距離にいる「他人」の、都合のよい妄想なのではないのか、と。

だからこそ新海誠の新作、『天気の子』には良い意味で裏切られた。そこには「他人ごと」のではなく、「わたしたち」の物語を語るひりひりとした切実さが感じられたからである。

たしかに相変わらず、というより、よりいっそう物語は閉じている。新宿や代々木、池袋、六本木、渋谷といった東京の都心部で物語の多くは展開し、『君の名は。』で出てきた「糸守」のような「地方」は登場しない。

『君の名は。』でも、最後にはヒロインも東京へ呼び寄せられることで、物語の空間は東京の内部に収縮していた。

 

だが『天気の子』では、はやくも冒頭から主人公は故郷の神津島――これも「東京都」に属すが――を抜け出し、その後もほとんど都市の外部は描かれない。

その意味で、『天気の子』では、『君の名は。』の後(ポスト)の物語として、舞台は東京にますます局限されているのである。

ただし異なっていたのは、『天気の子』が、『君の名は。』とは異なり、東京の「破壊」を詳細に描いていたことである。

ネタバレとなるため書きにくいが、『天気の子』で東京はゆっくりと破壊されていくのであり、さらに主人公たちはそれを後押し、あるいは少なくとも黙認する。

東京はもはや「無傷」ではいられず、ここでの崩壊は主人公(たち)にとって他人ごととして語られない。

こうして「わたしたち」の切実な破滅を描いたという意味で、『天気の子』は『君の名は。』の対偶にたしかに位置しているのである。